隣人と二度、恋をする
□chapter11.Birth,End & ReunionA
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楓から突然の電話があったのは、金曜日の夜のことだった。残業をして、酔っ払いだらけのアルコール臭のきつい電車に揺られて、駅についたタイミングで電話が鳴った。
画面に表示された“楓”の文字を思わず二度見して、様々な憶測が飛び交った。同棲を止めてから数か月間、ラインもメールも、全く連絡もなかったのに。あまりに唐突すぎて、別れ話をされるのだろうかと身構える。それとも、何か急を要する用事なのだろうか。
結局、ものの数秒に沸いた諸々の疑問を他所に押しやって、俺は急いで電話に出た。彼女からの電話を無視するという選択肢は、最初から無かったからだ。
「もしもし」
返事はなかった。代わりに、電話口の空気が震えるような、か細い呼吸の音が聴こえた。がやがやとした駅の喧騒が、彼女との電話を遠くしそうで、俺は全神経を耳に集中させてもう一度言った。
「もしもし?楓?」
具合でも悪いのかもしれない。急に不安が胸に込み上げて、声を張ってもう一度、楓と呼んだ。すると、
「銀時……」
その声は、嗚咽混じりだった。何事かと思うと同時に、電話口のただならぬ空気が伝わって、心臓がやけに早い鼓動を刻み始めた。
彼女は何度か躊躇ってから、張り裂けそうな悲痛な声で言った。
「おばあちゃんが死んじゃった……」
***
楓の祖母は、ブドウの収穫時期を目前に骨折で入院した。だが急逝するほど体調が悪かったとは知らなかったので、正直、突然の訃報に驚いた。
彼女は、どうにかなってしまうんじゃないかと思うほど意気消沈していた。葬儀のため山梨に行くというので、一人で行かせるにはあまりにも心配で、職場に無理を言って休みをもらい、一緒についていくことにした。
葬儀場で出迎えた楓の母ちゃんは、疲労が見える蒼白い表情で、俺を見上げてうっすらと微笑んだ。
「あなたも来てくれたのね。遠いところ、どうもありがとう」
中に入ると、畳の部屋に親戚が集まって、ひっそりと話をしていた。白い掛け布団に覆われて横たわる、小さな人影が見えた瞬間、心臓の奥が冷たく凍りついた。
楓の母ちゃんは、顔にかかった白い布を静かに外した。その人は、亡くなった人と思えないほど、穏やかな優しい表情で瞳を閉じていた。
「おばあちゃん」
楓が小さな声で呼びかけ、枕元に膝をついた。おばあちゃん、と彼女はもう一度、呼んだ。それは眠っている人を起こしてあげようとするような声だった。返事がないとわかっていても、認めたくない。そんな気持ちが声に滲んでいた。
それから何度も声をかけ続け、次第に嗚咽交じりの声に変っていく。彼女は線香をあげるのも忘れて、肩を震わせて泣き始めた。
一体、何て声をかけてやればいいんだろう。彼女の背後に立ち尽くす俺を見かねてか、楓の母ちゃんが俺の腕を引いて、彼女から遠ざけた。
「暫く、そっとしておきましょう」
部屋の隅に立ち、楓の母ちゃんは目許を赤くして鼻を啜った。
「あなたが一緒に来てくれて、よかったわ。あの子ひとりじゃ、たぶん取り乱して、ここに一人で来れなかったと思う」
聞けば、故人の容態が悪くなったのは急なことだったそうだ。骨折の手術が先延ばしになっているうちは、動けずとも元気だったらしいが、風邪で体調を悪くしてからは、寝たきりになってしまったそうだ。
「それからは、何かにとりつかれたみたいに日に日に弱ってしまって、どう手を施したらいいものかと相談しているうちに、逝ってしまったわ。元気な人だったから、長年生きてきたブドウ畑から離れてしまったのが、駄目だったんじゃないかと思うのよ」
楓の母ちゃんは、無理に笑顔を作った。
「私の父は、せっかちな人だったの。待ちきれなくて、迎えに来たのかもしれないわね」
俺たちが話している間にも、楓の小さな嗚咽が、絶えず部屋に響いていた。彼女の悲しみがどんどん伝播して、居合わせた人は皆神妙な表情で、故人とその孫の姿を見守っていた。
亡くなった人がいる空間というのは、日常とは一線を画した、異質な場所だ。
半分だけがあの世と繋がっているのだろうか。そこにいる人全てが、死というものの重みや怖さをひっそりと胸に秘めて、故人を悼み、心から別れを偲んでいる。
そこで静かに泣く、彼女の背中は小さくて頼りなくて、まるで知らない世界に迷いこんだ子どものように見えた。
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