隣人と二度、恋をする

□chapter14.Good bye daysA
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強い信念のもとに、自分の選択に自信を持って生きている人を心底羨ましいと思う。祖母の畑を護ろうと決意した平次おじさんは、やらなきゃ後悔するという思いに背中を押されたと言ったけれど、やろうという強い信念があったからこそ、そう言えるのだ。

これまでの人生を振り返って、“あの時こうしていればよかった”と思うことは幾つもある。例えば高校の時、何となくという理由で文系クラスを選択したけれど、理系クラスを選択していれば、今とは違う職業についていたかもしれない。進学する時、東京の大学に行かないで地元に残っていれば、さっさと結婚して、おばあちゃんが死ぬ前に花嫁姿を見せられたし、ひ孫だって抱かせてあげられたかもしれない。あの選択が人生の分岐点だと気付くのは、いつも後になってからだ。

隣人との関係で言えば、彼が職場に現れた時、彼の誘いを断ったのがひとつの分岐点だった。部屋に呼んだのが単なる彼の気紛れだったとしても、隣人の日常の一部になるチャンスは、確かに目の前にあった。
あのまま隣人宅に転がり込み、ライターの仕事に忙しい彼の為に家事をして、料理を作らない彼の為に、毎晩温かい食事を作る。そして求められるまま、毎夜厭きるまで抱き合うのだ。体がからからに渇くまで。声が枯れるまで。

そんな甘酸っぱい想像を繰り広げては、それが自分自身で切り捨てた選択肢だと思うと、傷口をナイフでなぞるような残酷な気分になった。自分から別れを告げた以上、世界がひっくり返っても二度と手に入れることは出来ない。満たされた隣人との生活は、捨てた選択肢の中に埋もれている。


「とうとう、東京も梅雨入りしたそうですよ」

職場の同僚の雑談で、私はハッと我にかえった。視線は自ずと、どんより雲に覆われた窓の方へと向く。春めいた心地のよい季節はあっという間に過ぎてしまい、都会の空気は、じっとりと蒸れたものに変わっていた。

「梅雨時って、晴れてもカラッとしないし、じめじめして嫌ですよね。去年よりも、一週間も早い梅雨入りですって」
「去年より……」

梅雨の時期が来たということは、隣人と知り合ってからちょうど一年が経ったことになる。去年の今頃は、彼の職業がライターだと知り、雑誌売場を見るたびにこの中のどこかに彼が書いた記事があるんじゃないかと、そのことばかりを考えていた。
日本橋のホテルに誘われたもの、そう言えば梅雨のさ中だった。ホテルの上質なロビーの風景や、雨に滲んだ幻想的な夜景を、今でもはっきりと覚えている。その明確さゆえ、一年前というのが嘘のようにも思える。

いや……覚えている、というより、忘れられないのだ。彼との思い出を、記憶の奥で眠らせることが出来ずにいる。セックスのひとつをとっても、彼と過ごした時間はあまりに濃密で刺激的で、日常の些細な事をきっかけに彼との思い出が呼び起こされる。例えば、窓の外に振る雨と、いつだったか彼の車の助手席から見た、雨の景色がぴたりと重なるように。一体いつになったら、彼は過去の人になるのだろうか。



***



職場に思いもよらぬ来客があったのは、梅雨の晴れ間の出来事だった。
執務室の出入り口が何やらざわついており、不審に思っていると、長身の見慣れない男性がひょこっと顔を覗かせた。髪は茶色のパーマ、屋内だというのにサングラスをかけて、赤と黒のストライプのスーツという奇抜な格好をしている。
彼は執務室を左右に見渡してから、

「すんませーん!秋山楓サンちゅう方は、こちらの部署でいいんかのう?!」

と、ものすごく大きな声で言った。職員の視線が一斉に彼に集まり、その数秒後、その視線は私に注がれた。
用があるにしても、なんて目立つ呼び出しかたをするのだろう。突然のことで、返事をすることも出来ずにポカンとしていると、周りの同僚が興奮気味に囁いた。

「ねえ、ちょっと、あの人、テレビに出てる人じゃない!?」
「ああ、昼のワイドショーの?!」
「やだー!テレビよりずっとイケメンじゃない!!」

どうやら有名人らしい。話題に疎い私にはピンとこなかったけれど、呼ばれた以上無視する訳にはいかないので、おずおずと席を立った。

「はい……秋山は私ですが……」
「おお!わし、雑誌の編集をしとる坂本っちゅうモンです!ちぃと話があるんじゃが、今から抜けれんかの?」

ちらりと時計を見上げると、正午まであとちょっとというタイミングだった。

「あと5分で昼休みなので、少し、お待ちいただけますか」
「ホイよ、了解!」

彼は満面の笑みで手を振りながら、顔を引っ込めた。周囲の好奇の視線を意識しないようにしながら、途中だった仕事に戻ろうとした時、廊下から大きな笑い声と、女の子達のキャッキャとはじゃぐ声が聞こえた。ちらりと視線をやると、坂本さんがサングラスの影からにこやかな目を覗かせ、若い女の子達からのサインに応じたり、一緒に写真を撮ったりしていた。

ド派手な格好をしたその人物は、区役所という空間の中で明らかに異質だった。だから、地味な私と彼の組み合わせは余計に目立ち、とても庁舎の中で話など出来なかったので、私は彼を外へと連れ出した。
人通りが少ない、区役所の裏手側に回り、ベンチに腰をおろす。湿気を含んだ梅雨の空気が肌にまとわりつき、初対面の人と話す緊張も相まって、背中に嫌な汗が流れた。有名人とおぼしき人がわざわざ職場まで訪ねてきて、一体何の話をされるんだろうか。
身構えていると、坂本さんは紙袋から、A4サイズの封筒を取り出した。

「渡してほしいと、預かってきた」

彼はそれだけ言って、封筒を私に手渡した。持った時の確かな重みで、本が入っているのだと分かった。

「高杉からじゃ。開けてみぃ」
「えっ」

驚きのあまり、一瞬頭が真っ白になった。隣人の名を耳にした途端、心臓が音をたてて跳ね上がり、汗がすうっとひいていく。
おそるおそる、封筒に手を差し込むと、そこには思ったよりも分厚い、著名な文芸誌が入っていた。表紙に書かれた文字が目に飛び込んできて、今度こそ、本当に心臓が止まったかと思った。

「タイトルがのう、入稿のギリギリまで決まらんかったんじゃ。アイツの中では最初っから決めとったようじゃが、あまりにも工夫がなさすぎて、考え直すよう言ったんじゃが、あの頑固者、人の話には基本的に耳を貸さんからのー」

撃たれたように声も上げられずにいる私とは対照に、坂本さんは暢気な調子で続けた。

「最近はインパクトがあるやたら長いタイトルとか、四、五字に略して言える語呂のいいタイトルがウケる傾向がある。でも、高杉がどうしてもと譲らなかった。結局、シンプル過ぎてかえって新鮮じゃろうとゴーサインを出した」

坂本さんは冊子を手に取ると、パラパラとページをめくってから、じっと私の顔を覗きこんだ。

「おんしと高杉の関係を聞くなんぞ、無粋な真似はせん。じゃが、あいつの描いた景色の中に、あいつが伝えたかったものの中心にいるのは、きっとおんしの姿なんじゃろうと、庁舎の中で見た時に直感したぜよ」

描いた景色。伝えたかったもの。坂本さんの言葉は、断片的にしか耳に入ってこない。驚きのあまり、頭の中が痺れている。私は辛うじて、あの、と口を開いた。

「高杉さん、他に……何か言ってました……?」
「おまんに渡してくれと、伝言はそれだけじゃ。ああ、あと、コレも預かっとった」

坂本さんは、もうひとつの預かり物を私の膝に置くと、仕事があるからと言って、タクシーを掴まえて風のような早さで去っていった。
それは古紙で厳重に梱包され、薄く丸い形をしていた。持ったときに覚えのあるサイズと重さで、中身は確かめなくても分かった。隣人の部屋に置いたままにしていた、青い鳥のお皿だ。

最後に隣人の部屋へ行った時、わざとお皿をそのままにしておいた。私のことを思い出してくれるように、ずっと持っていてほしいとさえ思っていた。それが返ってきたということは、サヨナラ、という意味以外に思い付かない。

どうせ返すのなら、一言くらい、メッセージがあってもいいのに。私が彼に宛てて手紙をしたためたように、もっと、ちゃんとした言葉で返してくれてもよかったのに。

私は泣きそうな気持ちで、青い鳥のお皿と冊子を腕にかき抱いた。

「こんな返事じゃあ、どうしていいのか、分からないよ……」

文芸誌の表紙は、青と紫色の鮮やかなグラデーションでデザインされ、鳥が羽ばたいていきそうなくらいに綺麗な色合いをしている。そこには、明朝体の白抜き文字が、雲のように浮かび上がっていた。


“高杉晋助 デビュー長編 「隣人」”


お皿が別れのメッセージなら、このタイトルの意味するものは一体何なんだろう。ただひとつ、確信できるのは、こんな形で彼の名を見てしまったら、彼は永遠に、過去の人なんかにならない。



(Bに続く)
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