隣人と二度、恋をする

□chapter8.5 Baby,please once againB
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山梨に来た初日に霜の話を聞いたが、春、普段霜が降りない時期に降る霜は晩霜(おそじも)といい、秋の普段霜が降りない時期は早霜(はやじも)というそうだ。普段は何とも思わない気象現象が、ここでは特別な名前を与えられ大きな意味を持ってくる。
天候や気象条件に気を配りながら、農作業をして、際限なく繰り返される日々の営み。一年が過ぎて、また次の一年が始まる。一週間の、いや、一日のスケジュールにさえ追われている都会の人間からすれば、緩やかに時間が流れるように見えても、決して平坦な道のりではないのだろう。


「俺が人生で農業できるのって、たったの50回しかないんだよ」

と、平次さんが言った。意図が分からずに黙っていると、

「収穫を1年に1回だとすると、俺は25歳の時に田舎に戻って就農したから、75歳までやると仮定して、50回になるだろう」
「ああ、なるほど」
「肥料を撒いたり、剪定したり、摘果したり、どれだけ手間暇かけたって、天候の具合でうまくいかないこともあるしさ。50回のうち、もうすぐ折り返し地点だと思うと焦っちまう。今までだって、たったの一度も葡萄の出来に満足した試しがないからね」

傍目に見れば、畑にたわわに実る葡萄は十分出来はいいと思うが、作り手の苦労というのはなかなか見えてこないものだ。当事者しか知りえない苦悩や葛藤は、どんな仕事にも共通している。
“たった50回。”たったという言葉を使ったのは、限られた人生の中で、繰り返し繰り返し、挑み続けてるから。じゃあ俺は一体、何度の挑戦をすることができるのだろう。



翌日の夕方、収穫の作業が終わった後に、平次さんが庭木の剪定をするというので手伝った。夜に庭に出た時は全く気付かなかったのだが、小銭形宅の庭は建家の面積と同じくらいに広く、実に多様な植物が植えられていた。

庭木は適度な日陰を作り出し、山吹や躑躅(つつじ)といった植え込みは形よく刈られていた。花壇を彩る様々な色形の草花は、どれも名前の知らない花ばかりだったので、珍しそうに眺めていると、

「これは、オキザリスっていうんだ」

カタバミによく似た白い花を指して、平次さんが言った。

「あっちの白いのは、シュウメイギク。蔓になって咲いてるのはクレマチスだよ」

クレマチスは聴き覚えがある。その隣に、一際目を引く艶やかな赤色の薔薇があったので、俺は意外に思いながら訪ねた。

「薔薇って、初夏に咲くものだけじゃないんですね」
「四季咲きの薔薇は、秋にも花をつけるんだよ。……昔、ウチの庭に咲く薔薇を見て、きれいだと言った人がいてな」

平次さんは感慨深い様子で薔薇の花に手を伸ばし、何本か見ごろのものを剪定鋏で摘み取った。

「花が好きな人でね。暑かろうが寒かろうが、いつの季節にも庭に花を絶やさないようにと思ってさ。多年草と球根と組み合わせて花壇を作って、いつでも花が楽しめるようにしたんだ」
「いい話ですね」

きっと、花が好きな静さんのために庭造りに力を入れたのだろう。普段のやり取りを見ていても仲のいい夫婦だと思うが、何とも彼ららしいエピソードだ。

すると平次さんは、摘んだ薔薇を古新聞にくるりと包むと、肩へ担いで車庫の方へ行った。

「俺、ちょっと出掛けてくるから。すぐに戻るよ」

煙草を買いにでも行くのだろうか。せっかく摘み取った薔薇の花は、元気なうちに静さんの手元に届けたらいいのにと思いながら、俺は車庫から出ていく車を見送った。



***



一足先に家に戻り、PCを開くと、以前引き受けていた仕事の件で、打ち合わせの日程調整のメールが入っていた。今更断る訳にいかないので、一旦東京に帰って、打ち合わせや諸々の用事を済ませて、またここへ来ようかと思い立つ。カレンダーを見ると、そろそろ月末が近い。もうじき、区の広報誌が発行される頃だった。

元々、区政にも地域コミュニティにも興味関心はなかった。毎月郵便受けに投函される広報誌は読まずに捨てていたのだが、隣人が広報誌を作る仕事をしていると知ってからは、一通り目を通すようになった。隣人が何かしらの記事を書いていたとしたら、その文章で、彼女の人となりが分かるような気がしたからだ。

俺が知っている女達は、聞いてもいないのに自分のことをペラペラ喋ってばかりだが、隣人は多分、こちらから訊いたとしても、恥ずかしそうに微笑んではぐらかしてしまうだろう。他の人間は知り得ない方法で、彼女のことを知りたいと思うと、面白味のない役所の広報誌でさえ楽しみのひとつに変わる。


台所で夕食の下拵えをしていた静さんに、一旦帰京する旨を伝えると、驚いてから落胆した表情を見せた。

「本当に、帰っちゃうの?来たばっかりじゃない」
「でも、打ち合わせを済ませたらまた来たいと思います。図々しくて、申し訳ないですが」
「そんなことないわよ。よかったわ、またすぐ会えるのね。楽しみに待ってるからね」

表裏のない笑顔は安心感があって、温かな母性を感じさせる。テーブルに積まれた野菜は、家庭菜園で静さんが育てたものだ。きっと今日も食卓には、腕によりをかけた料理が並ぶのだろう。


居間を借りてメールの返信を打っていると、トントンと包丁で野菜を刻む音や、何かを煮たり焼いたりする音が聴こえ始めた。台所に響く音は、作る人の思い遣りがそのまま音になって耳に沁みていくような優しさがある。
やがて、ふと急にその音が止んだかと思うと、

「晋ちゃん」

と、静さんが背後に立っていた。
何だか表情に陰りがあり、何の用だろうと思いながら俺は返事をした。

「はい」
「さっき、あの人、どこに行くか言ってた?」
「いや……」

平次さんが出掛けた先のことだろうか。心当たりはなかったので首を横に振ると、静さんは俺の向かいに小さくなって座り、声を低くして言った。

「ここだけの話ね。あの人、秋山さんとこの奥さんに会いに行ってるの」

一瞬誰のことが分からず、それが隣人の苗字であると気付くまでに時間がかかった。

「……楓さんの、おばあさんに、ということですか?」
「そう。入院先の病院にね」

居間の窓からは庭が広く見渡せ、垣根の向こうには、隣人の祖母宅が見える。静さんは暗い眼差しを、隣家の屋根に向けた。

「あの人、農家の家の長男なのに、東京で就職したのよ。当時はね、農業に人手が要るのに都会に行ったものだから、近所からも冷ややかな目で見られたみたい。それがお義父さんが急逝して、故郷に呼び戻されてね、いざ農家仕事をしなきゃいけないってなった時、周りからの風当たりが強かったのよね」

昔話をする静さんは、さっき“待ってるからね”と笑いかけた女性とまるで別人だ。母性はなりを潜めて、今は、ひとりの女の顔になっている。

「その時に、秋山さんちのご夫妻が、お隣さんのよしみで色々親切に教えてくれたのよ。私も感謝はしているけれど……あの人は、ちょっと違ったみたい」

静さんが暗に言おうとしていることは、何となく伝わった。同時に、平次さんが摘んだ薔薇の花は、妻のためではなく、隣人に届けるためだという憶測が働いた。そうでなければ、わざわざ切り花を持ったまま、車で出掛けたりしないからだ。

仲のいい夫婦なのに、片方が密かに隣人に好意を寄せているなんて。まさかと思う一方で、普遍的な夫婦だからこそ、外からは見えない隠し事があるものかもしれない。
俺はこの場にいる静さんに、味方をするつもりで言った。

「会いに行ってるって言っても、ただのお見舞いでしょう」
「秋山さんちの奥さん、きれいだったのよ。ものすごく、飛びぬけて美人って訳じゃないけど、色白で小柄で、可愛らしい感じの」

ふと脳裡に、隣人の小さな後ろ姿や、無邪気に笑った顔、セックスの時に触れた、白くてきめの細かい肌が浮かんだ。あれに惹かれるという気持ちなら、少なからず共感はできる。

「男の人って、単純でしょう。あの人を見てるとね、何となく分かっちゃうの。本当に、ただのお見舞いかもしれないけれど、いっつも花を摘んで会いに行くんだもの。今でもきっと、特別な存在なんだろうなって思うのよ……」

隣人のために、己で咲かせた季節の花を届けに行く。
近所付き合いの範疇だと言えば、そうなのかもしれない。けれどそこに恋慕の念があるのだとしたら、花を手にして逢いに行くなんて、童話のような純朴さと、壮年こその婀娜っぽさが共存していた。平坦で穏やかな暮らしの陰に、外からは決して見えないような綻びがある。その端緒を掴んで紐解いたら、どんな物語になるのだろうか。

数々のイメージが、熱い風のように身体中を吹き抜けた。これが俺の挑戦なのだと、拳を強く握り締める。隣人の言葉を借りれば、活字の海へ―――想像と空想の世界へ、両腕を拡げて飛び込んでゆく。



(chapter8.5 おわり)


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