隣人と二度、恋をする

□chaptr15.Shape of my heartB
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それから俺は定期的にクリニックに通いカウンセリングを受け始めた。ゴリラ刑事はというと、夫婦間でのすれ違いは簡単には解消されなかったらしく、偶然クリニックで再会した。その後連絡先を交換してたまに連絡を取ったり、カウンセリングに通う曜日を合わせて軽く飲みに行ったりするようになった。この歳になって新たな友人が出来るのは稀な事だが、相談相手としてお互い極めて貴重な存在だったのだ。

こんな形で親睦を深めているなんて、もちろん志村妙も楓も知らない。いつか申し合わせて種明かしをしたら、彼女達は揃って仰天するだろう。その時は、きっとみんながうまくいっているといい。


「何笑ってるの?」

目の前で、楓が怪訝そうに首を傾げていた。無意識のうちに俺は顔がにやついていたらしい。何でもないよと答えて、ガムシロップをたっぷり淹れたラテを一口飲んだ。

雨が強まったり弱まったりの荒天だったので、週末のデートはスターバックスだった。同棲していた頃に何度か来た事がある店で、二階の隅が彼女のお気に入りの席だった。大きな窓から大通りの往来と街路樹を広々と見渡せて、座っているだけで散歩した気分になるのだそうだ。

春先の街路樹は一枚一枚小さな若葉だったのに、雨の恵みをうけて日に日に大きく茂り、濃い緑で埋め尽くされている。樹々の一角だけ切り取ってみれば、枝が見えないくらいにこんもりと葉が生い茂っており、それはもはや夏の景色だった。
梅雨はまだ明けていないけれど、日中の汗ばむ蒸し暑さや、雲の切れ間から射すジリジリとした陽射しに、夏はそこらじゅうにある。春の訪れを待つ、春が待ち遠しいとよく言うけれど、夏は待つものではない。夏は呼んでもいないのに自分からやってくる。そんな勢いがある。


彼女との話題は、今年の夏休みの予定についてだった。例年に倣って休暇を合わせてとろうという話の中で、彼女に帰省するのか尋ねたところ、突然神妙な表情になって声のトーンを下げた。

「山梨のおばあちゃんちのブドウ畑、おばあちゃんが亡くなってから、お隣の平次おじさんが借りて育ててるの。お母さんからメールがあって、今年は天候の影響も少なくていいみたいだって。実は夏休みに、また収穫の手伝いに行こうか迷ってるの。…………どう思う?」

すぐに答えは浮かばなかった。彼女の祖母の家と言えば、昨夏楓の浮気を知って、高杉と殺意の混じった殴り合いをした場所だ。彼女とのセックスだって全然うまくいかなかった。あんな酷い出来事があった場所に行きたいなんてこれっぽっちも思わないけれど、同時に楓の祖母が亡くなった時、あの場所で二人で過ごしたからこそ、俺達の距離が元通りになりつつあるのも事実だった。

「じゃあ、正直に言わせてもらうけど」

俺はそう前置きして頭を掻いた。彼女だって迷っているんだろうが、先に俺に意見を言わせるのはちょっと狡いなと思った。

「行きたくない気持ち八割。行きたい気持ち二割。だって、あんまりいい思い出ねェんだもん。そういうお前はどうなの?」

彼女は、そうよね、と呟いて瞳を伏せ、言いにくそうに続けた。

「あなたを傷付けてしまった負い目があるから、私も、どうしても思い出しちゃう。子どもの頃はおばあちゃんちに遊びに行くのがとても楽しみで、ブドウ畑は大好きな場所だったのよ。でも去年の夏、あなたと高杉さんと過ごしてから、あの場所の意味が私の中でがらりと変わってしまった。本当はもう二度と行きたくないけれど、亡くなったおばあちゃんのことや、畑の世話をしてる平次おじさんのことを考えると、行かなきゃいけないとも思う」

彼女は片手でストローを弄びながら、思いつめた表情で言った。

「多分、行かなかったら後悔すると思う。一度、嫌だと思って行かなかったら、もう二度と行けなくなるような気がするの」

あんまり真剣な様子なので、俺は思わず笑ってしまった。

「どうしようか迷ってても、人に聞く時にはもう、答えなんて決まってるんだ。お前は自分だけじゃあ決断できなくて、誰かに背中を押してもらいたいだけなんだよ」
「うん。そうかもしれない」

と、彼女は控え目に微笑んだ。

「嫌でも向き合わなくちゃいけないことって、山程あるんだよな。行きたくないからって、ずっと行かないのも何か違う気がするし。収穫は体力的にきつかったけど、楽しかったよ。お前が行くなら、俺も一緒に行こうかな」
「ほんとう?」

彼女は目を輝かせて俺を見上げた。最初から山梨に行くつもりなら、わざわざ“どう思う?”なんて訊かないで、一緒に来てほしいと頼めばいいのに、それが言えない思慮深さが彼女のいいところでもあるし、欠点でもある。

彼女が高杉と寝た原因が俺とのセックスレスなら、もっと早く言ってくれれば何か変わっていたかもしれない。でも彼女の性格を考えると、端的に言えばセックスしたいとか、そういう類いの事はなかなか言えないだろうし、自分の中に溜め込んでしまったのだろう。恋人同士であっても、セックスのことを腹を割って話すというのは、簡単なようでとても難しい。


「実は、俺も相談したいことがある。でも、お前に言ったら引くかもしれない」

正直に話そうと思ったが、緊張が邪魔して身体が強張った。ゴリラ刑事と会った時、彼は夫婦の問題を打ち明ける際に大量の汗をかいていた。言いにくい事を切り出すのはこんなにも気力と踏ん切りが必要なのだ。俺は腹の底に力を込めた。

「俺は、もうお前にセックスレスで淋しい思いをさせたくない。何とかしたいんだ。だから、カウンセリングに通ってる」

声が震えていた。恐る恐る彼女を見ると、豆鉄砲をくらった鳩のようにキョトンとしていた。瞬きを忘れて見開いた瞳に、驚きや狼狽がサッと通り過ぎていった。それから不自然に視線を彷徨わせ始めたので、動揺を隠そうとしているのが目に見えて分かった。

「引いた?」

そう尋ねると、彼女は静かに首を横に振った。ストローを口許に運び、氷が解けて薄くなったラテを一口飲む。一呼吸を置いてから、彼女は言った。

「そうだったの。びっくりはしたけど、引いたりなんかしないよ」
「……そうか」

もし、高杉に会う前にこの問題を解決していたら、楓と高杉は気の合う友人同士になって、今頃三人でつるんでいた可能性だってある。セックスレスが原因で、危うく旧友も恋人も失うところだったと、そう気付くのが遅過ぎたのだ。

「本当は、俺が何とかしなきゃって気付いてれば良かったんだ。ゴメン」
「銀時が謝ることなんてないよ。私も、何も言えなかったから……」
「普通は言いにくいよな。セックスレスの事なんて、自分達が愛し合ってないって認めるみたいで、黙ってやり過ごせばいいんだと勘違いしてた。でも今は、そんなふうに思ってねェから」

カウンセリングに行こうと決意したのは、彼女とこの先も一緒にいたいからだ。そうしていつか、結婚とか、子どもとか、彼女が望むだろう事を叶えるためだ。
ゴリラ刑事が言っていた、好きという気持ちの延長にあるものだと、大好きだと伝える手段だと。俺は彼女の事が好きで、好きだということを今以上にちゃんと伝えたい。

「そのうちさ、あの、アレだ、あの……」

何と表現するのが適当か思い浮かばなくて、俺は何度も言葉を濁した。

「ちゃんと、俺から言うよ。その……“しよう”って」

お前を抱くとか、一晩中一緒にいようとか、気障で気の効いた台詞は言えなかった。我ながら格好悪い誘い方をしてしまったと思いながら彼女を見ると、彼女は顔を真っ赤にして俯いていた。耳の先から鎖骨にかけての肌までも、ほんのり桜色に染めていた。俺の意図したことはちゃんと伝わっていたようだ。

ああ、可愛いなと思う。
何度も淋しい夜を過ごさせた。つらい思いを沢山させた。それでも何年か経った時、つらい思いもしたけれどこの人と一緒にいてよかったと、心からそう思ってもらえるような男になりたい。



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