隣人と二度、恋をする

□chapter8.5 Baby,please once againA
1ページ/1ページ


翌朝、マンションから持ってきたノートパソコンを立ち上げてメールを確認すると、坂本からのメールが立て続けに入っていた。
俺は平次さんに断って電話を借り、編集部に電話をかけた。高杉です、と名乗った途端電話は保留に変わり、1秒か2秒もしないうちに、

「たーかーすーぎぃぃぃ!!!!」

と、坂本が電話に出た。

「おまん何しちゅうがか!!休むってどういうこっちゃ!!説明せい!!!!」

坂本は、ガキの俺に説教した時と同じくらいか、それ以上にキレていた。暫く休ませてほしいと手短なメッセージを送ったきりだったので、俺は心配をかけたことと、詳しく事情を伝えていなかったことを詫びた。

「休むとは言ったけど、連載は続けるよ。明後日には原稿は送る。ただ、新しい仕事は極力入れたくないんだ」
「そんなことよりなぁ、お前」

電話口から、ハアと大袈裟に溜め息をつくのが聴こえた。モジャモジャの髪に手をやりながら、窓際の肘掛椅子に深く沈む様子が目に浮かんだ。

「今、何処におるんか。独りか?」
「山梨。前に話したろ、女に殴られたって」
「ああ、そういえば」
「その時世話になった夫婦のところに厄介になってる」
「いつ、こっちに帰って来るつもりなんじゃ」
「決めていない」
「…………」
「ここでも、ある程度の仕事は出来るよ。多分」

坂本が少し黙る度に、編集部の空気が電話越しに伝わってきた。がやがやとした喧しい音は、新宿にある散らかったオフィスの殺伐とした雰囲気や、〆切が差し迫って疲弊する編集者達の姿を思い起こさせた。
電話で繋がってはいるけれど、つい昨日まで俺がいた東京から、随分と遠くに来たように思う。それほど、ここは時間と喧騒に追われた都会とは無縁の場所なのだ。

「そんな田舎に、一体何の用事があるっちゅうんか」

と、坂本は呆れた感じを含ませて言った。

「おまんは夏休みの小学生気取りかもしれんが、ライターが田舎に隠りっぱなしで、打ち合わせにも出てこんなんざぁ、仕事はいらんと言ってるようなもんじゃき」
「書きたいことがあるんだ」

そう伝えると、電話の向こうの空気が一瞬、固まるのが分かった。

「……とは言っても、今は形にすらまとまってない。何を書きたいのか、表現したいのか、俺自身も分かっちゃいない。でも、ここなら何かが見つけられる気がするんだ。それもまだ、勝手な想像と期待に過ぎないんだが」

後半に差し掛かるにつれ、自分でも自信がなくなっていくのが分かった。受話器は暫く沈黙で繋がり合う。
やがて坂本はふっ笑うと、先程とは打って変わって、開き直ったように言った。

「好きにせい。女のせいで仕事放り出すっちゅうんなら馬鹿野郎と罵るが、創作意欲が沸いたのなら、大いに結構。おまんの中にあるモンを全部形にしたら、一番最初にわしに見せてくれ」
「まあ、女のせいなのは、あながち間違っちゃいねェな」

聴こえるか聴こえないかの小声で呟くと、坂本が何じゃあぶつぶつと、と可笑しそうに聞き返した。玄関では、平次さんが長靴を履いて畑へ出る準備をしている。俺はじゃあな、とだけ言って、電話を切った。



***



午前中の出荷のためにシャインマスカットの収穫をするというので、俺も手伝いに畑へと出た。収穫時を迎えた瑞々しい葡萄の房はつやがあって、ハウス中が甘い香りで満ちていた。
隣人の祖母宅で五日間収穫作業をしたお陰で、勝手は既に知っている。ひと房ごとにビニールで包装して出荷するので、扱いには一層気を遣った。

集中しながら作業に没頭していると、頭の片隅がやたらと冴えてくる。こういう時に限って、なぜかいいアイディアが浮かぶ時が多いものだ。―――だが、そう思っていられたのは最初の数分だけだった。平次さんが、一分とも間を置かずに、弾丸のように喋りだしたからだ。

東京で飲食店で仕事をして、Uターンで地元に帰って就農したこと、冷夏と台風で大打撃を受けたこと、葡萄が初めて賞をとったこと。俺より数十年長く生きているので、多くの経験を積んでいるのは当たり前のことだが、放っておいたらずっと喋り続けるんじゃないかと思うほど、話題に事欠かなかった。
一通りの自分の話が終わると、

「晋ちゃんは、東京生まれの都会っ子かい?」

と、平次さんは話題の中心を俺に向けようとした。

「実家の両親は何してるの?兄弟はいる?出版社の名刺持ってるくらいだから、いい大学出てるんだろうなぁ。物書きなんて、頭よくなきゃ出来ねえよなあ」

隠すつもりはなかったので、俺は正直に、これまでの生い立ちを掻い摘んで話した。両親に冷遇され施設で育ったことを喋ってから、少し面白いかと思い、わざと自虐的に言ってみた。

「大学はおろか、高校すら卒業してないんです。不真面目だったので。知り合いのつてで、中卒で編集プロダクションに入社させてもらっ……」

そこで、俺は喋るのを止めた。平次さんがグズッと鼻を啜りながら、顔を拭い始めたからだ。
驚いてぎょっとしていると、平次さんはしみじみとした口調で言った。

「いや、何て言ったらいいのか……。苦労してきたんだなあ。晋ちゃん」
「はあ……」

まさか泣かれると思っていなかったので、開けっ広げに話したのはかえってまずかったのかもしれない。身の上話はおしまいにして、口を噤んで作業を再開すると、

「うちに、息子が二人いるんだ」

と、平次さんはさっきとはうって変わって、神妙な口調で語りだした。

「県外に就職して、家は出てるがね。二人とも出来が悪くてなあ。ヤンチャが過ぎて、何度かぶん殴ったことがある。もう帰ってくんなって、怒鳴りつけたこともある。でも、どんな悪さをしたって、見捨てることはできないよな。親にとっては、どんな奴だって、自分の子どもだからさ……」

でも、実際に見捨てる親はいる。血を分けた子どもに手を挙げ虐待の罪に問われたり、子どもの命を奪う親だっている。嘆かわしいニュースを観る度に本当の出来事なのかと疑うが、それは俺自身にも降りかかった事実であり、紛れもない現実だ。
そう思うと、自分自身の存在を否定されているような、誰からも必要とされない疎外感に窒息しそうになる。俺は多分、そんな孤独に押し潰されないように、俺はここにいるんだと証明するために、物を書く道を選んだのだ。


「……ちゃん。晋ちゃん」

ぼんやりと考え事をしていると、平次さんの呼ぶ声がする。俺は顔を上げた。

「何ですか」
「だからさ、ウチを自分の家だと思っていいよ。こんな田舎で、嫌かもしれないけど。これからも、仕事の息抜きのつもりでたまに泊まりに来なよ。楓ちゃんのつてで知り合ったのも、何かの縁だからさ」

元気づけようとしているのか、慰めようとしているのか、平次さんの必死ぶりに笑いそうになってしまう。ありがとうございます、と俺は言った。建前でも社交辞令でもなく、心の底から出た感謝の言葉は、実際口にしてみるととてもいい響きのするものだった。


その夜は、昨晩よりも豪勢な料理が食卓が並んだ。沢山食べてね、と言った静さんの顔には、憐みとも何ともつかない、籠の鳥を見つめるような同情の色が浮かんでいた。きっと平次さんから俺の話を伝え聞いたんだと、一瞬でわかるような表情だった。
ここには、まさに親が子を思う真心と、飾り気のない暖かさがある。ここでならきっと、何を恐れることなく、自分自身と向き合えるだろう。何かを見つけられそうな、そんな期待と相まって、胸の中心に火が灯ったように暖かかった。



(Bへ続く)
次の章へ
前の章へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ