隣人と二度、恋をする

□chapter13.Cherry blossom FantasiaB
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恋人同士であれ、家族であれ、親しい間柄になればなるほど甘えてしまって、相手を傷付けてしまうことがある。だからと言って、痛い思いをしたくないという理由だけで距離を置いてしまうのは、とても淋しいことだ。要は、ちょうどいい距離を保って、側にいればいい。

だが、それは相手によっても違うもので、見つけるのに一苦労する。恋愛の初期段階は、この距離を決めるのにまずお互いのことを知ることから始まる。失敗したり、うまくいかなかったりしながら、やっとのことで二人の関係が成熟する頃には、ちょうどいい距離を保ったまま、ただお互いを見るだけじゃない、同じ方向を向いて、二人一緒に前に進んで行ける。

いつか、楓とそんな風になりたい。
俺達は、何年も同じ場所に立ち止まったままだったから。


夜桜を見た翌週、楓が山梨に帰省するというので、俺は特に予定を入れることなく、家でだらだらと過ごしていた。思う存分二度寝三度寝をしてから、遅い朝食を済ませて、そろそろ定春の散歩に行こうかなと思っていた時だった。

「銀時」

茶の間にいたバアさんが、茶を淹れながら俺に手招きした。

「話がある。ちょいと、そこに座りな」
「何だよ、改まって」

俺はどっかりと腰を下ろし、淹れたての熱い茶に口をつけた。すると、バアさんが何の前触れもなく言った。

「あたし、次郎長と暮らすかもしれない」

俺は漫画のように、ブフォッとお茶を噴き出した。その一言は、“あたし彼氏と同棲するかも”と、恋に恋している女の子が夢見がちに切り出すような唐突さがあった。
口をあんぐりを開けたまま、バアさんを凝視する。とうとう、本格的にボケが始まってしまったと思った。

「……大丈夫かよバアさん。自分で何言ってるか分かってる?つーか、俺が誰だか分かる?」
「馬鹿にしてんのかい。あたしゃ正気だよ」
「……ボケてねェなら、その……一緒に暮らすっつーのは、本気なのかよ」

全然状況を理解できなくて混乱した。第一、展開が急過ぎる。爺さんとは、いつだったか台風が来た日に会ったのは覚えているけれど、その後の進展は何も聞いていない。
俺は、ごくりと唾を飲んで訊ねた。

「それってさ……再婚するってことになるよな?」
「いや、違う。あたしは死んだら旦那と同じ墓に入るって決めてるから、結婚はしない」
「じゃあ、事実婚ってやつになんの?」
「さあ、どうだろうねェ」
「どうだろうって……」

困惑する俺を、バアさんは面白がって見ている節があった。俺の知らないうちにどんな変化があったのか、順を追って説明してもらわなければ納得できない。そう思っていると、バアさんが落ち着いた口調で言った。

「旦那が死んで、独りで生きてきて……あんたが家に住むようになってさ。淋しいなんて思うことはもう無いけれど、あんたもいつか結婚して、家を出ていくだろう?そうなったら、あたしはまた独りきりに戻っちまう。そうなるんだったら、老い先短い人生、誰かの傍にいる方がいいと思っただけさ」
「……さては爺さんから、一緒に暮らそうって言われたんだな?そうなんだろ?」

バアさんはそれには答えず、ズズッと音をたてて茶を啜った。

「横浜にアイツの家があってね。十分過ぎるくらい広くて、年寄に優しい……バリアフリーっていうの?快適な暮らしが出来そうだったのさ。でも、一個だけ条件をつけたんだよ」
「なに?条件って」
「アイツが禁煙に成功すること」

と、バアさんは悪戯っぽく笑った。

「あたしだって、十二指腸潰瘍で懲りてこの歳で煙草止めたんだから。隣でスパスパやられちゃあ、禁煙した身には堪らないからねえ」

縁側で、うまそうに煙草をふかしていた爺さんの姿が思い出される。老い先短い人生、貴重な楽しみを奪われるのを憐れにも思うが、この先二人が一日でも長く一緒にいるためには、それは最善の方法かもしれない。熟年のハリネズミは、お互いの出方をじりじりと見守りながら、ピッタリとちょうどいい距離まで近付いたのだ。
その時、ふと頭に幾つかの疑問が浮かんだ。

「バアさんが横浜に住むとして、定春はどうすんの?つーか、この家は?俺はどこに住めばいいんだよ」
「定春は一緒に連れて行くつもりだよ。この家は……」

バアさんはふう、と一呼吸を置いて、俺を見た。

「移り住むときに、売ろうと思ってる。あんたはもう社会人なんだから、自分の住む場所くらい自分で見つけな。あたしはそこまでは、面倒みれないよ」

それこそ、寝耳に水というものだ。俺は焦って腰を浮かせた。

「売るって……この家を?」
「だって、アンタ一人で済むには広すぎるだろ」
「いやいやいや、待ってくれよ。そんな、勝手に話を進めないでくれ」

俺は頭に手をやって、混乱を鎮めようとした。バアさんが、たちの悪い冗談を言っているようにしか思えなかった。

「ガングロジジイと住むってことは分かった。賛成も反対もしねーよ。でも、家売るってどういうことなんだよ」
「売った金は、アンタにやるつもりだよ」

と、バアさんはキッパリと言った。

「元々、一人で生きてくつもりだったんだ。老後のために、幾ばくかの蓄えはあるけど、アンタに遺してやれるものが何もないからね。ここを売った金は、アンタが結婚する時の資金にでもしとくれ。都内のどこかいい場所に、マンション買えるくらいの金にはなるだろうよ」
「違ェよ!俺が言いたいのは、そういうことじゃあねえんだよ……」

俺は茶の間をぐるりを見渡した。高校生の時、初めてこの家に来た。それから過ごしてきた平凡な日々の想い出が、この家には詰まっている。それはバアさんも同じ筈で、死んだ旦那と過ごした記憶が、この家のあちこちに息づいている。

「昔、旦那とふたりで住んでたんだろ?ここに!本当に……本当に、壊してもいいのかよ?人の手に渡ったら、取り返せないんだぜ?取り壊しちまったら、それっきりなんだぜ?!」

俺には、楓と暮らしたマンションを引き払った苦い経験がある。家がなくなったからと言って、共に過ごした時間や思い出がなくなる訳ではないけれど、“確かにここで暮らしていた”と証明してくれるのは、家であり、見慣れた家具や食器であり、空間そのものだ。
この家は、高杉を捜してさ迷っていた俺を、楓が去って空っぽになっていた俺を、迎え入れてくれた場所なのだ。

俺が悲痛な表情で訴えたからだろうか。バアさんは若干狼狽した様子で、湯飲みを握る手にぎゅっと力を込めた。

「まさかアンタが、そんなことで怒るなんてね」
「怒るよ!つーか、“そんなこと”とか言うなよ!」

俺の為に、バアさんは家を売る決断をしたのだろう。でも、俺なんかの為に、家を手離すなんてことはしてほしくない。
バアさんの皺だらけの手の甲に、骨と筋が浮かぶ様子を見ながら、俺は強い口調で言った。

「金は欲しいけど、ここを売って得る金なら、いらない」

すると、バアさんはうっすらと微笑んだ。

「そうだね。ここは、あんたの家でもあるんだったね」

それから聴こえるか聴こえないかの声で、ごめんよ、と言った。
謝る気があるんだったら、もっとハッキリと大きい声で言えばいいのに、家を売るなんて思いつく前に、ジジイとの進展を報告すればいいのに、と思い付く数々の文句を飲み込んで、俺は茶の間を後にした。



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