隣人と二度、恋をする

□chapter13.Cherry blossom Fantasia
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暮れなずむ町の 光と影のなか 
愛するあなたへ 贈る言葉

卒業式の終盤、定番ソングが体育館に響く。生徒たちの口は一応動いてはいるが、ちゃんと歌っているのは合唱部の生徒くらいで、あとは歌っているのか口をパクパクしているだけなのかわからない。中には早く終わってくれと言わんばかりに、スマホをチラ見している奴もいる。
そんな連中の気持ちは、分からなくもない。自分がガキの頃を思いだせば、卒業式に一生懸命なのは先生や周りの大人達だけで、式典なんてどうでもよかった。卒業式を迎えて嬉しいと思った記憶は、あまりない。通いなれた校舎が変わるのも気が進まなかったし、気心の知れた友達と離れるのも嫌だった。新しい環境は面倒臭くて、卒業なんてしなくてもいいとさえ思っていた。

昔は知らなかった。卒業が人生の節目なのだと。その意味を理解し、卒業式が大事なセレモニーだと気付いたのは、高校、大学と歳を重ねて、“卒業”というイベントから縁遠くなった、大人になってからだった。

だから担任した生徒達の卒業は、なおのこと特別だ。今後の人生への期待と不安の入り交じった、不思議な気持ちを抱きながら、新たな道へ踏み出す生徒達は頼もしく見える。感慨深さもひとしおだが、一方で、やっと肩の荷が下りたという安堵も大きかった。

年が明けてから、とにかく忙しかった。三年生の担任なんて金輪際やりたくないと思うほど、忙殺された。
一月のセンター試験に始まり、二次試験、専門学校の一般入試、就職活動の世話とやることが目白押しで、ほとんど休みがなかった。進路は生徒一人一人で違うので、フォローするのにいっぱいで他のことは全部後回しになっていた。

仕事が忙しい時は、仕事以外の事が疎かになってしまう。宅急便の不在票に再配達の予約をするのとか、保険の書類を送るのとか、些細な用事でさえ日々の忙しさに押し流されて次々に忘れていた。例えば、仕事を理由に男女の仲が悪化するのは、仕事を都合のいい言い訳にしているだけだと思っていたけれど、あまりの多忙さに日常が置いてきぼりになることは実際にあるのだ。

楓との関係も然りだ。去年までは一緒に暮らしていたから、家に帰れば当たり前に彼女がいて、いくら多忙でもコミュニケーションをとれていた。だが、今は違う。会おうとしなければ会えない。付け加えるなら、彼女は遠慮がちで自分から誘うタイプじゃないから、俺から連絡しないと、会えない。
センター試験が終わったら、二次試験が終わったら、と思いつつ、会う約束をするためのタイミングはどんどん後ろにずれている。年が開けてから全く会う時間が取れなくて、一瞬の早さでバレンタインが終わっていたことに今更気付く。

(会いてェな……)

校庭の桜の枝には、小さな蕾が膨らんでいた。ひと月もしないうちに桜は満開となって、新入生を迎えるのだろう。
桜の時期は毎年、楓と近所の桜を見に行ったなと思うと、三ヶ月分の“会いたい”の気持ちが一気に押し寄せて、今すぐに彼女の顔をみたくなった。



***



生徒達の進学先や就職先が無事決まり、入学ムードを迎える三月の終わりに、俺はやっとのことで楓と会う約束をした。
普段は居酒屋で適当に飲んで食べるのだが、埋め合わせのつもりで、職場の同僚にお勧めの店を聞いて、恵比寿駅の東口改札で待ち合わせをした。

「銀時!」

彼女は、約束の時間に数分遅れて姿を見せた。

「ごめんね、遅れちゃった」

膝下のフレアスカートをひらひらとさせながら、小走りに改札を抜けてくる。ストラップのついた上品な靴が足許を華奢に見せて、彼女はいつもよりぐんと大人っぽい。
久し振りに会ったせいなのか、服装のせいなのか、以前と雰囲気ががらりと違っている。その理由に気付いて、俺は思わず声をあげた。

「アレッ、お前、髪……!?」

最も大きな違いは、彼女の髪型だ。年末に会った時には肩にかかるくらいの長さがあったのに、目の前の彼女は、バッサリと髪を短くしていた。耳の形がくっきりと見えるくらいの、少年のようなショートヘアーだった。

「びっくりした。髪、切ったんだな」
「うん。変かな」
「いや、変とかじゃなくて……。何つうか……見違えたっつーの?似合ってるよ」

もし、学生の頃にそんな髪型をしていれば、中学生みたいだと笑ったかもしれない。でも二十代の終わりに差し掛かってみれば、女なのに髪が短いというギャップのせいか、妙齢の女性相応の色気が漂っていた。
丸見えの細い首筋がいっそう女らしくて、元々小柄な彼女に、ショートヘアーはよく似合っていた。全身のバランスが小さく均等にまとまって、まるで彼女の為に考えられた髪型のようにも思えた。


駅から出ると、楓は薄手のストールをふわりと首もとに巻いた。若草色で春らしいが、透ける素材でできているので、防寒というよりオシャレな飾りに見える。彼女はストールの形を整えながら、俺を見上げた。

「恵比寿で食事なんて、デートみたいね」
「みたいっつーか、デートだよ」

そう答えると、彼女はフフ、と笑って俯いた。

恵比寿駅から少し歩いた所にあるイタリア料理の店は、外国映画に出てきそうな、こじんまりとした店構えをしていた。中は、さして広くはない。カウンター越しの厨房には瓶やら缶やらがずらりと並び、木目調の壁には、メニューが細かく書かれた黒板や、額縁で飾られたアートが幾つも掲げられている。適度に雑然としていて、アットホームな雰囲気を醸していた。

「かわいいお店ね」

と楓が言った。赤いチェックのテーブルクロスは、彼女が座ると途端に居心地がよさそうに見える。俺は彼女の前に、メニューを大きく広げた。

「同僚に聞いたんだよ。ラザニアがうまいんだって」

腹が減っていたので、釜焼きのピザや生ハムのサラダ、チーズ、食べたいものを遠慮しないで次々に注文した。俺はグラスワインを注文して、楓はノンアルコールのサングリアを飲んだ。評判のとおりに味はよく、彼女は美味しさに顔を綻ばせ、よく笑って、よく喋っていた。

けれど時折髪をかき上げ、俯きがちに頬張る様子など、唇が妙に艶かしく見えたり、剥き出しの耳から鎖骨にかけての白い肌に、いちいちドキドキしたりした。男子三日会わざれば何とかという慣用句は聞いたことがあるけれど、女は三ヶ月会っていないと、まるで別人に見える。

本当に、男というのは身勝手だ。仕事が忙しくて放っておいたのは自分なのに、逢わなかったこの三ヶ月間、彼女がどんな風に過ごしていたかが気になってしょうがない。

俺に会いたいと、少しでも思ってくれただろうか。
それとも、誰か他の男と逢ったりしたのだろうか。

休日は何をして過ごしていたのだろうか。
髪を短く切ったことに理由があるなら、それはどんな心境の変化なのだろう。

そして一番知りたいことが、分厚い雲のように頭にまとわりついて離れない。たった一言、尋ねればいいのに、反応が怖くて訊けないのだ。

―――“なァ楓、高杉と会ってる?”―――

「……、銀時。大丈夫?どうしたの」

彼女の声にハッと我に返ると、彼女は心配そうに首を傾げて、じっと俺の様子を窺っていた。

「さっきから、ずっとうわの空よ」
「あ、いや……。ゴメン、何でもない。何の話だったっけ?」
「今度の週末、実家にきてほしいってお母さんが。何の用事かも言わないのよ。お法事じゃないだろうし、何だか嫌な予感がする」

酒が飲めない彼女は、ノンアルコールの飲み物に唇を運びながら話を続けている。耳を傾けていても、奇妙なフィルターがかかったようにちょっとした仕草が気になって、相変わらず話題の半分も頭に入ってこない。


食べたり飲んだりしているうちに、あっという間に時間は過ぎた。会計を済ませて外に出ると、はい、と言って彼女が会計の半分を渡してきた。
同棲していた頃から、外食の時は割り勘と決めていたからだ。彼女がいつものように払おうとしたので、俺は格好をつけて言った。

「今日は俺が出すよ」
「えっ。どうして?」
「いいじゃん。俺、年明けから残業しまくったから、余裕あるし」
「だめだよ」

俺の腕を、楓はきゅっと掴んで言った。

「あなたが遅くまで仕事して、頑張って稼いだお金なんでしょう。こんなことじゃなくて、ちゃんと、自分のために使いなよ」

女の子なんだから、ここで素直にありがとうと言って甘えてくれたら可愛いのに、楓の頭にはそんな発想はないだろう。彼女は時々とても大人びて、しっかりして見えることがある。
そうは言っても、今日は最初から奢るつもりだったので、俺は抵抗を試みた。

「たまに奢るくらいは、いいんじゃねェの?随分会えてなかった訳だし、さ。埋め合わせに払わしてよ」
「だって、これからも飲みに行ったり食事に行ったりするのに、あなたの負担になったら、行けなくなっちゃうでしょう」

それから彼女は、ハイ、と言って、数枚のお札を俺の上着のポケットに突っ込んだ。小さな手が滑り込む感覚や、ちょっと強引な仕草がいちいち可愛かった。
そして、“これからも”と彼女が言ったフレーズは、停滞していた俺の気持ちを強く後押しした。今日は、このままサヨナラをしたら駄目なんだと、己を奮い立たせて、自分の手で警鐘を鳴らす。

ちらちらと様子を窺っては、一人で思いを巡らせてばかりの臆病者からは、いい加減卒業しなければならない。

「なァ、楓」

駅に向かって歩こうとしていた彼女を呼び止めて、俺は言った。

「このあと、ちょっと時間ある?行きたいところがあるんだ」



(Aに続く)
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