隣人と二度、恋をする

□chapter13.Cherry blossom FantasiaA
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川沿いの桜並木は、遊歩道から水面へと、身を乗り出すように満開の枝を広げている。ここ数日暖かい日が続いたせいか、ちらちらと花弁が舞う様子も見られた。木々の間に灯るボンボリが満開の桜を艶やかにライトアップして、桜のピンク色とボンボリの橙色が交差するトンネルは、川面の上をどこまでも続いていた。

俺と楓は目黒川の夜桜を見に、恵比寿から一駅、中目黒までやってきた。都内でも有名な桜の名所だとは知っていたが、電車はまるで朝の通勤ラッシュのように混雑していて、駅近くの横断歩道は、夜桜目当ての花見客で溢れ返っていた。

遠くに見える橋では、若い女の子達が競うように写真を撮っては、映り具合を何度も確認している。頭上の花を見上げたり、川の両側の花を楽しんだり、大勢の人の頭がごちゃごちゃと入り雑じる様子は、まさに芋洗いだ。週末にごった返す渋谷駅前より酷い。


俺も楓も、人が多いところは苦手で、混雑する場所は嫌煙する方だ。彼女を見ると、桜の見事さは全く目に入らないようで、予想をはるかに上回る混み具合にポカンとしていた。

「す、すごい人だね……」
「少し、歩こうぜ。遠くからでも桜は見れるかも」

俺達は、川沿いの遊歩道をわざと外れて、一本離れた道をぶらぶらと歩いた。賑わいが遠くに聴こえるだけで、桜並木の混雑が嘘のように、人も車もあまり通らない静かな道だった。
目的地のない散歩は、会話がなかなか生まれない。当てもなく歩いているうちに、桜を見せたくて彼女を連れて来たのか、話をするために連れ回しているのか、だんだん分からなくなってくる。

その時、後ろを歩いていた彼女が、

「ふしゅん、んくしゅ」

と立て続けに二回、くしゃみをした。小動物が鳴き声に失敗したような、かわいらしいくしゃみだったので、俺は笑いながら訊いた。

「大丈夫か?寒い?」
「うん。ちょっと。川の近くにいるせいかな」

確かに駅付近に比べると、風がひんやりとしている。いつだったか天気予報で、桜の咲く三月下旬の最低気温は、十一月下旬の気温とだいたい同じと言っていたのを思い出した。春だからとつい薄着をしてしまうけれど、夜は冬同然に冷え込むのだ。髪を短くした彼女の首は、なおの事細く頼りなくて、薄手のストールだけでは寒さを防げないのだろう。

俺は上着の下に着ていたネルシャツを脱ぐと、彼女の肩にぐるりと引っ掛けた。

「マフラーの代わりにでもして」
「え、いいよ!そんなことしたら、あなたが寒いでしょう」
「俺、酔っぱらってるから寒くねェし」

本当は、全然酔ってなんかいない。久しぶりに彼女に会って、気になることで頭が埋め尽くされて、酔いが回ってくる隙間がない。
彼女は少し迷ってから、シャツの袖を内側にしまいこんでから、マフラーのようにして首の回りにぐるぐると巻き付けた。

「ありがと、銀時」

小柄な彼女には男物のシャツは大きくて、子どもが背伸びして大人物のマフラーを巻いているような、滑稽な光景だった。暖かい、と彼女が呟いた時、俺はアッと思い出して慌てて確かめた。

「ちょっ、待って、それ洗濯したっけ!?臭くねェよな?!」
「ふふ、大丈夫だよ」

彼女は笑って、シャツに鼻先を埋めながら、スンと音をたてて匂いを確かめた。

「銀時のにおいがする」

そう呟いてから、俺の先に立って、ゆっくりと歩き出した。
自分が今しがたまで持っていた体温や匂いをそのまま受け渡すのだから、服を貸すというのはとても親密な行為だ。そんな風に思うのは、俺だけなのだろうか。
彼女の白い手の甲が前後に揺れるのを、ちらりちらりと盗み見る。俺自身が今どんな顔をしているかなんて、自分じゃあ分からないけれど、きっと物欲しそうな顔をして、彼女の手を握るチャンスを眈々と狙っている。

去年までは一緒に暮らしていたのに、手を繋ぐだけで、どうしてこんな駆け引きが必要なのだろう。離れていた時間や、俺達の間に起こった様々な出来事がそうさせているのか。自ら近付くことに、俺はたいそう臆病になっていた。

昔、ハリネズミのジレンマという話を聞いたことがある。二匹のハリネズミが恋に落ちて、お互いを抱き締めようとするのだけれど、お互いのハリが体に刺さってとても痛い。仕方がないから距離を置いたけれど、愛し合っているから少しでも近付きたくて、でも、やっぱりハリが体に刺さって痛い。
世の中の恋人達は、きっとそんな風に痛い思いをして、傷付いたり傷付けられたりしながら、お互いの距離を見つけていくのだ。楓と同棲していた頃、毎晩同じベッドで寝ていたのに、彼女がセックスレスで苦しい思いをしていると気付けなかった。彼女は我慢して我慢して、俺にハリが刺さらないようにしていた。それを安泰な暮らしだと勘違いして、誰よりも彼女の側にいると過信していた俺も、大概めでたい奴だ。

どれほど痛い思いをしてでも、お互いの気持ちをちゃんと伝えて、分かり合わなければいけばいのだ。そうしなければ、俺達はもう、やっていけない。


暫くして、前を歩いていた楓が足を止めた。

「銀時、桜が見えるよ」

川沿いに続く細道から、ちょうど満開の桜並木が覗いていた。ボンボリの明かりを映して、花は鮮やかな朱色をしている。昼間の桜にはない、婀娜っぽい美しさだ。
その時、さあっと夜風が吹いて、桜の枝が同じ方向に、柳の枝のように揺れた。その拍子に小さな花弁が空いっぱいに舞い上がり、それからふわりふわりと降ってきた。暗闇に舞う桜の花びらは、まるできらめく星屑のようだ。
わああっと大きな歓声が沸いて、遊歩道の人々はこぞって空を見上げていた。遠目に見るその景色はファンタジックで、まるでお伽噺の世界を垣間見ているようだった。

隣にいる楓を見ると、彼女はまん丸の瞳をきらきらとさせて、その景色に見入っていた。色白の整った横顔は、ジブリの映画に出てくるヒロインの女の子のように、あどけなくて可愛い。無垢、という言葉がぴったりの顔をしている。
こんな時にヒーローの少年は、迷わずその手を握るだろう。気付けば俺は、不思議と躊躇なく、彼女の手を握っていた。

けれど彼女は吃驚したのか、途端に体を硬くして、手のひらを強張らせた。俺は咄嗟に手を離した。謝罪の言葉が口をつく。

「ごめん。嫌だった?」
「……ううん」

今度は、彼女の方からおずおずと手を伸ばしてきた。再び手を捕まえて、つい力任せにぎゅっと握ってしまったのを、力を緩めてもう一度、握りなおした。手のひらと指の位置を変えて、指を絡ませ、優しく力を込める。同じくらいの力で、彼女が握りなおす。

「嫌じゃないよ。嬉しい」

と、彼女が小さな声で言った。その声が聴こえた時にはもう、喉がカラカラに干上がっていて痛いほどだった。訊きたいことや伝えたいことは山ほどあって、喉元まで出かかっているのに、吐き出す勇気がない。

桜並木の下では、大勢の若者達が散る夜桜に願いでも乞うように、花を見上げては笑いあっていた。そんな喧騒を遠くから傍観する俺達は、幻想的な世界から隔離されて、現実を生きているのだと思わされる。


「私達の関係って、何なんだろうね」

と、楓が言った。俺はぎくりとして彼女を見つめた。

「こうして、手を繋ぐのだって本当に久しぶり。前は一緒に暮らしていて……おばあちゃんが亡くなった時は、ずっと側にいてくれたのに。私達、これからもくっついたり離れたりを、繰り返していくのかな」
「俺は、離れたなんて思ってねーよ」

そう言ってから、忙しさにかまけて、ずっと彼女に連絡していなかったのを思い出した。
三ヶ月も連絡がなかったら、気持ちが離れたと思われても当然だ。何処かで俺は、彼女なら分かってくれると甘えてしまっている。それは家族や友人など近しい人に対して、少しの甘えと許しを期待するのと同じなのかもしれない。

「離れたなんて思ってねェけど、ずっと連絡してなくてゴメン。年度末は忙しいって、俺がそう言っちまったから、お前からは連絡できなかったよな。俺に、気ィ遣ってたんだろ」

彼女は小さく頷いた。俺はアレコレと想像するのを止めにして、覚悟を決めた。

「なァ、楓。格好悪いの分かってて、訊くよ。まだ、高杉と会ってるのか?」

彼女が黙って首を横に振ったので、俺は重ねて質問した。

「じゃあ、他の男とは?」

彼女はまた、首を小さく横に振った。
それ以上問い詰めようにもないから、彼女を信じるしかないのだが、本当はどうなんだろうと疑っている自分がいる。以前は一緒に暮らしていて、いつも彼女が目の届くところにいたけれど、離れて初めて分かったことがある。一体どこまでが庇護欲で、どこからが独占欲で、どのラインを越えたら束縛になってしまうのか。

「銀時は……」

と、楓がじっと俺を見上げた。

「私と一緒にいたいと、思ってくれてるの?」
「思ってる」

俺は即答した。

「死ぬほど仕事が忙しくても、会いたいと思ってたよ。思ってたのに言わなかったのはダメだと分かってるけど、今更言ったって遅いかもしんねェけど……お前と一緒にいたい」

知らず知らずのうちに、彼女の手を握る手に力がこもる。距離の取り方は分からなくとも、一緒にいたいという気持ちには、揺るがない確信が持てる。

「今すぐじゃなくていいんだ。いつか、前みたいに一緒に暮らせるようになりたいよ。そのためにどうしたらいいのか、頑張ってみるよ」

例えば、再び楓と一緒に暮らし始めたとして、またセックスレスで駄目になったら、その時は本当に終わりがくるのだろう。同じ失敗を繰り返さないために、一歩、とまではいかないけれど、手探りで進み始める。ゆっくりでいいから、ちょうどいい距離を探る。俺達は、二匹のハリネズミだ。



(Bへ続く)
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