隣人と二度、恋をする

□chapter14.Good bye days@
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二人の男性に同時に好意を持った時、したたかで打算的な女性だったら、スペックや将来性で両者を比較して、どちらの男性と居るのが自分の為になるのか判断するのだろう。そうして幸せを掴んで、私の選択は間違ってなかったわとほくそ笑む。

でも私にとって、銀時と隣人を天秤にかけるという発想がなかった。彼らに対して抱く感情は、“好き”という言葉で表現するなら同じものかもしれないが、蓋を開ければ全く別々の種類のもので、比較する対象にならない。それでも私が銀時を選んだのは、隣人を傷付けることより、銀時を傷付けることの方が罪悪感が大きかったから。
一度裏切ってしまった以上、銀時を二度まで裏切ることは、どうしてもできなかったから。

過ちを繰り返すのは、もう終わりにしたいという気持ちから、私はばっさりと髪を切った。自分自身へと戒めの意味もあるし、何より、隣人が触れてくれた髪を切ることで、思い出ごと彼と決別したつもりでいた。


「あら。髪、切ったのね」

ショートヘアーになった私を、母は物珍しそうに見た。母に呼ばれて山梨に帰省し、高速バスの停留所に迎えに来た母は、自宅ではなく祖母の家へと車を走らせた。
遺品の整理を進めているのか、祖母の家はものが少なくて整然としていた。色々なものがあって、適度にごちゃごちゃとしている感じが“おばあちゃんち”っぽくて好きだったのに、その面影はなくなっていた。

「手、洗ってきなさい」
「はい」

言われるまま洗面台に行くと、大きな鏡に映った自分の姿にぎょっとした。髪が短い自分にまだ慣れなくて、鏡を見るたびに、別人が映っているのかと錯覚してしまう。

茶の間に戻ると、母が来客用の座布団を敷いてお茶うけを出していた。誰か来るのだろうかと思っていた時、玄関の方でお邪魔します、と聞き覚えのある声がした。

「あれ、平次おじさん……?」

祖母と同じブドウ農家である、隣家の小銭形平次さんが、今しがた畑から戻ったような作業着姿で現れた。会うのは久し振りなので、挨拶しようとすると、

「おっ!?楓ちゃん髪切ったの?イメチェン!?大人っぽくなったなぁ!」

イメチェンという言葉を、50歳を超えた平次おじさんが若者ぶって使っていると分かったので、ちょっと恥ずかしかった。

「え……えへへ、そうですか?昨年の夏は、いろいろとお世話になりました」

他愛ない世間話をしながら、なぜ祖母宅に平次さんが来たんだろうと不思議だったが、その疑問はすぐに解消された。見慣れない車が到着したかと思うと、行政書士の男性が来訪したのだ。行政書士とは、官公庁に出す書類の作成をする資格を持った人のことだ。

どうやら、今日は祖母のブドウ畑をどうするのかについての話し合いらしい。祖父が亡くなってから、祖母が親戚に手伝ってもらいながら栽培を続けていたけれど、祖母は他界し、その親戚も高齢を理由に近々引退するというので、畑をどうするのかが決まっていなかった。私は小声で母に尋ねた。

「おばあちゃんの畑、売っちゃうの?」
「相続して私の名義になっているから、私から小銭形さんに貸すことにしたの。小銭形さん、冬の間も畑の世話をしてくれていたみたいで、やるならちゃんと手続きしましょうってことになって。私に何かあった時はあなたしか頼れないから、あなたにも一応来てもらったのよ」

行政書士が予め用意した契約書が、母と平次おじさんに手渡される。農地賃貸借契約書と記された書類を見て、私は上京した時にアパートの契約をした事を思い出した。

「農地を貸し借りするのにも、契約書がいるんですね」
「一般的に、契約は口約束でも成立するとされています。ですが、農地の売買や貸し借りには農地法の制約があるので、こうして書面で取り交わすことになっているんです」

と、行政書士の男性が教えてくれた。
農地法の許可申請の説明を終えてから、双方で契約書の記載事項を確認していく。私は母の隣に座り、それぞれが記名し捺印する様子を、何とも言えない気持ちで見守っていた。

祖母のブドウ畑が、知らない人の手に渡ってしまう訳ではない。それでもどこかもの悲しい気持ちになるのは、農家ではない自分達ではどうしようもできなくて、非力さがやるせないのかもしれない。



***



実家に帰る前に、久し振りにブドウ畑を見ようと、私は外に出た。東京と山梨の桜前線は10日前後ずれており、地元の桜は五分咲きだった。地元の空気は東京と比べるとまだ冬の名残を感じ、首筋がすうすうと冷たくて落ち着かなかった。

ブドウ畑に行くには、納屋の前を通らなければならない。去年の夏、収穫の手伝いに来た時に、隣人と納屋の裏手で抱き合った。真夜中の出来事は、私と隣人以外誰も知るはずもないことなのに、そこは禁忌の近づいてはいけない場所のように思えて、わざと遠回りして通り過ぎる。
そのまま足早にブドウ畑に向かおうとすると、今度は畑で泥まみれになって、殴り合いの喧嘩をしていた銀時と隣人の姿を思い出した。

(やっぱり、見に来ない方がよかった)

人の記憶は厄介だ。忘れたいことに限って、なかなか忘れさせてくれない。
ここに来る度に思い出すんだろうと思うと、尚更複雑な気持ちになった。ファイルを消去するような手軽さで、記憶の一部を消してしまえたらどんなに楽だろうか。


四月初旬のブドウ畑は、覆い繁る葉もない、木の枝だけが所在なく生えていて閑散としていた。肥料と土の匂いがして、畑の乾いた土を踏みしめる感覚が懐かしい。作業着姿の平次おじさんは、脚立に昇って皮剥きの作業をしていた。芽吹きを前にして、木の皮に虫が入らないように枝や幹の皮を剥くのだ。

「平次おじさん」

声をかけると、平次おじさんは近くの枝を指して言った。

「見てみな楓ちゃん。もうすぐ今年の新芽が出るよ」
「あっ、ほんとだ」

枝の間に、確かに芽が膨らみ始めているのが分かった。新芽は暖かくなるにつれて、目を見張るような速さで伸びていき、やがて蔓になり、葉になり、実りへと繋がってゆく。
それも全て、冬は防寒のため幹に藁を巻いたり、春先の剪定作業をしたりと、芽吹きに備えた管理を平次おじさんがしてくれていたからだ。果樹農家は、収穫以外の期間を全て管理に費やして、冬の寒い時期も地道な作業を日々積み重ねるのだ。

農作業と縁遠かった私でも、夏に収穫を手伝って少しだけ分かったことがある。日々暑さや寒さと戦いながら体を酷使するのは、とても大変だということ。ましてや天候は自分でコントロールできるものではないから、空調のきいたオフィスで予定通りに仕事を進めることに比べれば、生きものを相手にするのは根気がいるし、タフでなければやっていけない。

「新芽が出るのも、平次おじさんが世話をしてくれてたおかげですね」
「いやー、おかげっつうか、楓ちゃんのお母さんはあんまり良く思ってないかもなぁ。人様の畑にずかずかと入って、勝手に剪定とかしちゃったからね」

平次おじさんはアハハ、と自虐的に笑いながら、

「ホラ、うち、畑が隣同士だろ?」

と、隣接した小銭形家のブドウ畑に視線をやった。

「霜が降りそうな時、自分とこの畑に行くと、こっちの畑が見えるんだ。幹子さんが亡くなって、ブドウを気にかけてくれる人がいなくなって、どうなるんだろうと思うと放っておけなくてさ。ブドウの樹は管理を怠るとすぐダメになっちまうから」
「おじさんちの畑も広いのに、おばあちゃんの畑まで、大丈夫なんですか?」
「実は、県外で仕事してる長男がもうすぐ帰ってくるんだ。やっぱり地元でブドウやるっつってな。若い男手が増えるから、何とかなると思うよ」

平次おじさんは脚立から降りて額の汗を拭きながら、何か思いだしたように、ふっと小さく笑った。

「去年の九月頃だったかな。晋ちゃんが家に何度か泊りに来てたんだよ。幹子さんの訃報を聞いた時も家にいて、葬儀には晋ちゃんと一緒に行ったんだけどさ。幹子さんには若い頃とても世話になったから、恩人が居なくなってしまったと思うと、恥ずかしい話、自分の畑のことさえもどうでもよくなって、やる気が失せちゃってさ」

でも、と言って、平次おじさんは祖母のブドウ畑をぐるりと見渡した。

「晋ちゃんに言われたんだよ。悲しい出来事やつらい経験から逃げ出すのは簡単なんだ、と。乗り越えた先に、今までと違う景色が見える筈だから、目を背けちゃいけない……ってさ。自分の息子に説教されてるみたいで、釈然としなかったけど」
「高杉さんが、そんなことを……」
「もし、幹子さんのブドウが霜でやられたり、虫に喰われてしまったら、絶対に俺は自分が許せなくなる。やらなきゃ後悔するって気持ちに背中を押されたのかな。幹子さんの畑に今年のブドウが実るのをこの目で見たら、それが晋ちゃんの言う、乗り越えた先の景色なのかなと思ってね……」

夏の収穫時期、ここで過ごした記憶は鮮明に覚えている。青々と繁る葉に守られながら、赤紫の瑞々しい房がどこまでも連なる様子を。小さな粒を口に含んで、甘味と少しの酸味が舌の上で転がる感覚を。
祖母のブドウを、今年も見ることが出来ると思うと、胸に暖かいものがこみ上げてきた。ここにあるのはいい思い出ばかりではない。それでも、また来たいと心から思った。実りの光景を、私もこの目で見たい。

「ブドウを大切にしてくれて、おばあちゃん、きっと喜んでると思います」

感謝と呼ぶには軽すぎて、希望というには大袈裟だけれど、平次おじさんがとても頼もしく、まるで勇者のように映る。生暖かい風が畑を抜けていき、ブドウの木々も感謝を表すかのように、さわさわと揺れた。

すると、平次おじさんはじいっと私の顔を見つめてから、頬をうっすらと染め、懐かしそうに目を細めた。

「楓ちゃん、こうして見ると昔の幹子さんにそっくりだなあ。髪が短いと、ますます似てるよ」

平次おじさんは私の存在を通り越して別の何かを見るように、慕情の眼差しをしていた。私の中にある祖母の面影を見たのか、それとも、ブドウ畑に点在する、祖母の思い出を見つけたのだろうか。
他の誰の為でもない、平次おじさんは祖母の為に畑を護ってくれるのだと思うと、とても自然に納得がいった。


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