隣人と二度、恋をする

□chapter14.Good bye days@
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ブドウ畑から戻ると、母が帰り支度を済ませて、車の前で私を待っていた。

「もう帰るから、早く乗りなさい」

私が車に乗り込み、シートベルトを締め終わるのを待たず、母は荒っぽい仕草で車を発進させた。機嫌の悪い人がいる時特有の、ピリッとした空気が車内に漂っていた。母はなぜか険しい表情をして、唇を横一文字に結んで黙々とハンドルを切っていた。
思い返せば、平次おじさんが来た時も、契約書を取り交わす時も、母は口数が少なく最小限のことしか喋らなかった。愛想笑いのひとつもしなかったように思う。理由があるとすれば、一つしか思いつかない。私はおずおずと尋ねた。

「お母さん、怒ってるの?」
「何がよ」
「……平次おじさんが、おばあちゃんのブドウ畑を勝手に触ってたこと……」
「怒ってなんかないわ。むしろ、感謝してるくらいよ」

感謝と言いつつも、全く謝意の感じられない淡々とした口調で、母は続けた。

「おばあちゃんが入院してた時、担当の看護師さんに聞いたの。小銭形さん、おばあちゃんのためによく庭の花を届けてくださってたんですって。私は週に一回位しかお見舞いに行かなかったのに。その上ブドウ畑までやってくれて、娘の私以上に尽くしてくれてると思うと、自分が情けなくてね。本当に、親不孝な娘だわ」

自嘲気味に、自分を卑下して言っていたのが分かったので、私はすぐに否定した。

「そんなことないよ!だって、」
「だって、って何よ。あなたは何も知らないくせに」

ぴしゃりと叩くような言い方で、母は私の言葉を遮った。知らないくせに、なんて親に言われてしまうと、子どもの私は何も言い返せなくなって、助手席で黙って縮こまった。
一体、何が気に障ったのだろうか。じっと俯いていると、母は溜め息混じりに言った。

「……農家の一人娘が、家業を継がないで結婚して、そのくせに数年で離婚したのよ。それが親孝行な訳ないでしょうよ。今でも考えるわ。もし、ブドウ農家を継いで、誰かをお婿さんに貰っていたら、きっと離婚なんてしなかっただろうなって。大事にしていた畑だって、ずっと守っていけた。父さんと母さんにとっても、その方がずっと幸せだったって思うと、どうして自分の夢を優先させてしまったのか、分からなくなるのよ」

母がそんな風に自分の気持ちをあけすけに語るのは初めてだったので、私は驚いていた。娘の私の前では、母はいつでも“母”だったから。

「ちょっとでも親の気持ちを汲んでいれば、正しい道を選べていたのよね。母さん、私が農家を継がないことに反対はしなかったけど、本心はきっと違っていた。離婚した時、帰っておいでって言ってくれたけど、本当はがっかりしたと思う。私がもっと我慢強かったら、冷静に先々のことを考えていたら……」

母の口調がだんだん弱々しく、頼りなくなっていく。“母”という肩書きを取り払ってしまえば、母もひとりの人間で、私と同じように、迷いながら生きているのだと実感した。

人生は選択肢の連続で、迷い、悩み、自分で下した決断でも、それが正しいかどうかなんて誰にも分らない。過去に切り捨てた選択肢は、自分の選んだ現実と比べれば時に輝かしい夢のように思えたりして、胸を掻きむしりたくなるほどの後悔や、途方もない絶望に暮れることもあるのだろう。

後悔なんて、きっときりがないのだ。捨てていった選択肢は瓦礫のように積み重なって、でこぼこの不安定な道を作り出す。定まらない足場を踏み出すのには勇気がいるのに、後戻りはできなくて前に進むしかない。そしてまた、すぐに次の選択を迫られる。

そうやって長年生きてきた中で、私の存在も、母にとっては切り捨てた選択肢の中に入るのだろうか。そう思った瞬間、誰からも見放されたような寂しさが、ぐんと体の芯に食い込んできた。
すると、でもね、と母が言った。

「私、あなたを産んだことだけは、後悔したことない。本当に」

私はハッと顔を上げて母を見た。母の口調からは、さっきの刺々しさはなくなっていた。

「あなたが物心つく頃には、もうお父さんがいなくて、私は毎晩仕事で遅いし、淋しい思いを沢山させたけど、あなたがいたから頑張ってこれたんだと思う。あなたが志望通り、東京の大学に進学して、公務員になって安定した道を選んでくれて、すごく安心してる。私は親不孝だけど、親としては恵まれてると思うわ」

母の表情は、フロントガラスから差し込む陽射しが逆光となって、よく見えなかったけれど、瞳にうっすら水の膜が張って、光の影が溜まっていく様子が分かった。

「女の子は結婚に夢を見がちだけど、結婚で不幸になることだってある。世の中にあまり見えないだけで、結婚して苦しんでいる人は沢山いると思うの。私は一度失敗したから、偉そうに言える立場じゃないけど」

少しの笑いを織り交ぜながら母はそう言って、すんと音をたてて鼻を啜った。

「どんな形でもいいから、あなたには幸せになってほしい。坂田くんと一緒にいたいと思うなら、それでもいいし、他の誰かと一緒にいたいなら、そうしてほしい。あなたが幸せだったら、どんな道を選んでも、私も幸せだから……」

数々の選択肢を切り捨てても、母は私を育ててくれたと思うと、胸から熱いものがこみ上げた。母は“正しい道を選べていたら”なんて言ったけれど、正しいかどうかが分からないのと同じように、今が間違っているなんて誰が決められるのだろう。もし母が人生をやり直したとしても、農家にはならないで、ピアノの先生を選ぶだろうと確信できる。やりたい事を選んで、一生懸命仕事をする母が、私にとっての“お母さん”だからだ。

「お母さんは、自分で決めて、自分の道を選んだんでしょう。おじいちゃんもおばあちゃんも、お母さんが幸せなら、それでいいと思ってるよ」

声が震えるのを我慢しながら、私は言った。祖母の葬儀でも、一度も涙を見せなかった母が泣いているので、私までもらい泣きしそうだった。
暫くして、そうね、と母は笑って言った。

「子どもの幸せを願わない親なんて、どこにもいないものね」

私はとうとう我慢が出来なくて、目尻からポロッと熱い涙が零れしまい、慌てて指先で拭った。
いい歳の母娘ふたり、車のなかで何を泣いているんだろうと思うと可笑しかった。母に涙を気付かれたくなくて、窓の方へ顔を向ける。涙で滲んだ故郷の空は、晴れたまま藍色に溶けて夜を運んでこようとしていた。穏やかな景色は家路に着く私達を見守っているようで、なんとなく、報われた気持になる。
今のままでも大丈夫、これでよかったんだと、そう思いながら前へ進んで行く。それは後悔との、サヨナラの日々。



(Aへ続く)
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