隣人と二度、恋をする

□chapter14.Good bye daysB
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舞台は甲信地方の田園地帯。果樹農園を営む普通の家族を描いている。両親に一男一女、誰も気にも留めないような普通の農家。だが、長らく空き家だった隣家に、脱サラして就農を目指す男性が引っ越してきて、それをきっかけに家族の歯車が崩れ始める。文芸誌に数回にわたって連載される『隣人』の物語は、冷えた夫婦関係に思い悩み、隣家の男との恋に落ちる妻の話から始まっていた。

他者の目を通して見る家族は、一見平凡でも、それぞれ違った性の悩みや恋愛の価値観を持っており、別々の世界を生きていた。一家の陰影を深掘りにする出来事を重ねつつ、家族であっても知り得ない世界はどんどん深みに嵌っていく。別々なのに切り離せない、そんな家族の複雑なあり様は、細やかな描写力と確かな文章力で緻密に描かれ、読むものを一気に虜にした。洗練された文体は上品さすら感じさせて、感情表現や風景描写のひとつをとっても、何度も読み返して味わいたくなる。

たとえば、一家の妻と隣家の男が惹かれ合う場面では、恋の始まりを思い出し、切なく甘酸っぱい気持ちがこみ上げた。果樹農園で農作業に精を出す場面では、祖母のブドウ畑に吹く、土の匂いの混じった暖かい風や、子どもの頃花を摘んで遊んだ懐かしい記憶を呼び起こして、胸をかきむしりたくなるほどの郷愁の念にかられた。
隣人が、平次おじさんのところに何度か泊めてもらったと言っていたけれど、執筆のための取材だったと今になって気付いた。そうでなければ、故郷の空さえ記憶に蘇るような描写はできないだろうから。


坂本さんから文芸誌を渡されたその日に一度読み、その翌日も読み、また翌日も読んだ。夢中になるとはこういうことだと思いながら、私はふと、隣人に宛てた手紙を思い出した。

“何でもいいから、あなたの書いたものを読みたかった。”

美しい文章で綴られた物語が、隣人が私に宛てたメッセージだと、思ってもいいのだろうか。



***



週末は、銀時と会う約束をしていた。
春先に桜を見てから、彼とはほぼ毎週のように会っていた。特別、何か目的を作って会うわけではなかったが、趣味や嗜好が同じなので、休日を共に過ごすには彼は最高のパートナーだった。私の食べたいものを彼も食べたいと思ってくれたし、彼が観たい映画は私も観たいと思った。
彼と一緒にいる時間は気を遣わなくて楽しかったけれど、手を繋ぐ以上のことはしなかった。別の見方をすれば、友達と恋人の中間辺りで、どちらに振れるか分からないような、ふらふらとした時間を過ごしていることになる。


「よう。一週間ぶり」

待ち合わせの駅に現れた銀時は、白いシャツにインディゴブルーのジーンズという、初夏らしい服装をしていた。
その日の天気予報は雨で、ついさっきまで雨が降っていたのに、駅に着いた途端雨が止んだ。雨上がりの、洗い立てのような薄い水色をした空は、彼の銀色の髪ととても相性がいい。

「銀時って晴れ男だっけ?」
「ううん。天パ男」

彼はそう言って私を笑わせてから、駅の案内地図を指した。

「この近くに大きい公園があるんだ。行ってみようぜ」

彼の言ったとおり、駅の構内を出てすぐに噴水のある公園が見えた。梅雨の時期、公園の散歩なんて暫くしていなかったので、私は喜んで賛成した。

晴れ間から降り注ぐ陽射しは眩しくて、夏を感じさせた。公園に出来た水溜まりや濡れたベンチを、次々に渇かしていくようだ。

「雨上がりの公園って素敵ね。空気がきれいで、なんだかすがすがしい」

銀時は小さく頷いて先へ進んだ。芝生の緑は生き生きとして、雨粒に濡れて輝いている。芝生を抜けるアスファルトの遊歩道を歩いていくと、正方形の屋根に覆われたベンチが見えてきた。屋根が雨を防いで、ベンチの周りだけ土が乾いているのが分かった。

「あそこに座ろう」

銀時はベンチを指差して、ひとりで歩いていった。なんとなく、彼は会った時から口数が少なかった。いつもは一週間の出来事を、面白可笑しく教えてくれるのに。考え事をしているのか体調が悪いのか、原因は何にせよ、いつもより元気がないのが目に見えて分かった。

私は、バッグの中に忍ばせたものを見せようかどうか迷った。坂本さんから貰った文芸誌を、銀時に教えようと持ってきたのだ。知り合いが文芸誌で作家デビューしたのだから、お祭り騒ぎになりそうなものだけれど、私達の間で隣人の名前を出すのはある意味タブーのようで、銀時がどんな反応を示すのかが怖かった。


ベンチに腰かけるなり、彼はショルダーバッグから、無造作に何かを取り出して私に見せた。

「これ、もう読んだ?」

それは私が持っているのと同じ文芸誌だった。あ、と思わず声が出た。青と紫のグラデーションの表紙は、予期せぬ瞬間に見ると、瞳に焼き付くような色彩の濃さと勢いを持っている。
私も文芸誌を取り出して、同じように彼に見せた。

「実は、私も今日持ってきたの。あなたはきっと知らないだろうと思って」
「何だよ。俺、見せようかどうかすげえ迷ってた。お前がどんな顔するか、分かんなかったからさ」

無口だったのは、私と同じように迷っていたからだと思うと安心した。私達は顔を見合わせて微笑み合った。銀時は、新聞記者をしている桂さんから情報を得たらしく、コンビニに走ったそうだ。

「びっくりしたよね。ライターの仕事をしてるとは聞いてたけど、まさか、有名な雑誌に小説が載るなんてね」
「うん。同姓同名の作家かと思ったけど、アイツだった」

表紙に踊る“高杉晋助”という作者の名前と、“隣人”というタイトルを見つめる。私達三人の間には、私と隣人の、隣人と銀時の、そして銀時と私の、それぞれの出来事が複雑に絡み合って今に至る。銀時と同棲していたマンションに隣人が引っ越してきた時から……いや、銀時と隣人が、少年時代を共に過ごしていた時から、私達は既に他人ではなく、お互いの人生に関わることになっていた。それが何の前触れもなく、著名な文芸誌で小説家としてデビューするなんて、一躍時の人になったようで、遠い存在に思える。

「ライターなんて肩書きばかりで、適当な文章を適当に書いて金貰ってると思ってたけど……。あの野郎、こんな話も書けるんだな」

銀時は伏し目がちにパラパラとページをめくり、静かな口調で言った。

「この話ってさ、お前がモデルだろ」

初回の連載は、夫の浮気に気付きながら知らぬ振りを貫き通し、隣家の男との不倫の恋に落ちる妻の物語だった。私の立場とはちょっと違うが、似ているところもある。

「性格もお前とよく似てる。外見の描写もそっくりだし、俺は完全に、お前と重ねて読んでた」
「そう……なの、かな……」

既婚で子持ちであることを除けば、セックスのない夫婦関係に悩みつつ、本心をさらけ出せずに、仲の良い夫婦を演じている主人公の境遇は、共通しているかもしれない。
物語の一場面に、スーパーで野菜を選ぶ描写があった。隣人と肉じゃがの材料を買いに行った時のやりとりに酷似した内容が描かれており、もしやとは思った。でも、数多の女性を虜にしそうな魅力があって、女性に不自由しなさそうな隣人が、まさか平凡な私をモデルとして書くとは思えなかったのだ。

「アレを読んでさ、どこにもお前のことだなんて書いてないのに、ちゃんと、お前だって分かるように書くんだから、すげェよな」

自分がモデルだと、自分で思うのは自惚れのようで気が退けたけれど、私のことをよく知っている銀時にそう言われると、確信が持てた。
何度も読み返したのは、物語の面白さはもちろん、私自身の姿を投影していたからだ。

「アイツの目を通したら、世界はこんな風に見えてるんだなって、お前のことを、これだけ思ってるんだなっていうことが分かったんだ。これは、アイツがお前の為に書いたものだ。文才のねェ俺にゃあ、そんな芸当出来やしねェよ……」

共に過ごした僅かな時間を凝縮して、隣人が物語に織り込んだと思うと、あまりにも特別で、いとおしくて、金輪際他の誰にも読んでほしくないと思ってしまった。大勢の人が、彼のデビュー作品に注目して彼が有名になれば嬉しいはずなのに、自分だけのものにしたいという願いは大きく矛盾していた。
それは隣人への気持ちをキッパリと捨てたつもりなのに、まだ諦めきれずに、好きだと自覚している気持ちの矛盾と同じだった。

終わりにしたくて髪まで切ったのだ。どうしてますます、忘れられなくさせるんだろう。

やるせない思いに喘ぐように、空を仰いだ時だった。雨上がりの空に、色鮮やかなアーチが大きな弧線を描いているのが、目に飛び込んできた。

「あ、虹……」
「えっ?」

銀時が声を上げて空を見た。水色の空と緑地の風景に、突然現れた七色の光は非日常的で、混沌とした思いがプツンと途切れた。ちゃんと見ておかないと勿体ないと思うほど、橋のようなきれいな形をしていた。

公園にいた人々が次々に気付いては歓声を上げた。スマホを取り出して一生懸命に撮っている人もいたけれど、そんな気分にはなれなかった。刹那的な自然の美しさを、消えてしまう前に少しでも長く、自分の目で見つめていたかった。銀時も同じなのだろう。瞳をいっぱいに開いて、美しい景色を見つめていた。

「虹なんて見たの、何年振りだろう……。ガキの頃以来だ」

懐かしそうに微笑む横顔に、どことなく漂う幼さを見て、銀時の少年の頃を思う。
彼と隣人は一体、どんな少年時代を過ごしていたのだろう。大昔、彼が虹を見た時に、側に隣人の姿はあっただろうか。そんなことを考えていると、ふと、最後に隣人と会った時のことを思い出した。

私の為に書いたと、銀時はそう言ったけれど、おそらくそれは違う。隣人が誰に対して後悔の気持ちを持ち続けているのか、誰の孤独や淋しさを救おうとしていたのか、私はちゃんと覚えている。

「ねえ、銀時……」

隣人と私だけの秘密がある。誰にも知られてほしくないことだってある。

でも、ただひとつ、銀時に知ってほしいことがある。

「高杉さんは、あなたのことも大切に思ってる。だからこれは、私の為じゃない……“私達”の為に、書いてくれんだと思う」

ページを開けば次々に溢れだす。彼の紡ぐ物語が虹色の光となって、私達に絶え間なく降り注ぐ。それは時に喜びに目映く輝き、時に哀しみに翳りを見せるけれど、どれもが大切に胸にしまっておきたくなる言葉たちだった。

隣人が何を想いながらが物語を書いたのか、本当のところは、彼しか知る由がない。けれど、彼が綴る物語は、誰の心にも、その人が本当に大切にしたいものを映し出す。私にとっては、故郷の山梨の光景、亡くなった祖母、平次おじさん、母。そして、銀時。それは愛しさや哀しみを胸に宿すたびに、記憶に紐付いて思い浮かぶ、かけがえのない人々の顔だった。まるで虹のごとく架け橋となって、気持ちを繋いでいくように。

彼の繰り出す巧みな表現や美しい世界は、心の扉を優しく叩く。そして心を開けば誰もがきっと、彼の物語に恋をするだろう。



(chapter14 おわり)


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