隣人と二度、恋をする

□chapter16.Just stay with me
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文芸誌の著者紹介欄を読んで初めて、隣人が夏生まれだと知った。

紫色と青のグラデーションの表紙は、真夏の夜の色だ。祖母の家で隣人と見上げた星降る夜空を思い起こさせる。夏のひとときに体験したほろ苦く切ない想い出は、肌が日焼けに傷むようなヒリヒリした感覚を伴って、今なお私の中に痛みを遺している。

真夏の光線は、クラクラと眩暈がしそうな炎天から降り注ぎ、肌を通り越して内臓まで焦がすほど強烈だ。そんな夏特有の狂暴なエネルギーは、うねるような勢いをもって世界中を飲み込んであらゆるものを夏の色に変えていくのに、去るときは拍子抜けするほど呆気ない。夏の終わりは、訳もなく虚しくて哀しい。それは、隣人との恋そのものだ。一年前から、私にとって夏は隣人の季節になった。これから先、夏がやって来る度に隣人のことを思い出し、二度と還らない時間を狂おしいほど恋しく思うのだろう。



八月、夏休みを目前にした週末、銀時から会おうと誘いがあった。空は真っ青に晴れ上がり、コンクリートに照りつける陽射しが眩しかった。
行きたいところがあると彼は言った。駅のホームに降りて電車を待つ間、日影に立っていてもホームの屋根にカッと陽が照っているのが分かる。日傘で目映さを防ぎながら、電車の到着を今か今かと待った。

「ねえ、どこに行くの?」
「俺達が最初に会った場所」
「最初にって……?」

もしやと思ううちに、快速電車がホームに勢いよく滑り込んだ。環境に悪いくらいにガンガンに冷房をきかせながら、電車は途中の駅を次々に通過して、私達を都心から離れた所に運んでゆく。

銀時が目指したのは、私達の母校だった。当時、毎日のように通った駅から大学までの道のりが何も変わっていないことに感動して、気分が一気に高揚した。在学中は何とも思わなかったけれど、大学名が掘られた正門の構えが趣があり、とても立派に見えた。夏季休暇の真っただ中とあって構内はがらんとしていたけれど、体育館やテニスコートの方から、運動部の練習の声援や掛け声が聴こえてきた。私達はきょろきょろと辺りを見ながら正門をくぐった。

「勝手に入って怒られないかな」
「いいだろ。一応OBなんだから」

私達はかつて学んでいた講義棟や学生食堂を一周して、時計台の下のベンチに並んで座った。時計台を囲むように銀杏の大木があり、晩秋は実が落ちて臭いのだけれど、夏は木陰に吹く風が心地好い。在学中も、よくここに座って話をした。

「卒業以来だね。懐かしい」

学生時代は、銀時と妙ちゃんと講義や昼食の時間を一緒に過ごして、沢山お喋りをして沢山笑い合った。大学は私達が知り合った場所でもあるし、初恋にめぐり合った場所でもある。

銀時とは、何となくお互いに好きなんだろうなという雰囲気を感じつつ、二人とも奥手で暫くは何の進展もなかった。とうとう妙ちゃんが痺れを切らして、銀時をけしかけて彼が私に告白した。確か、講義のあとだった。妙ちゃんだけが先に帰って、銀時と二人きりになった時、好きだと言われた。
あの甘酸っぱい、胸が弾けるくらいに高鳴る気持ちを今でもはっきりと思い出せる。嬉しさのあまり涙がでた。私も彼のことが好きだったから。初めて出来た恋人の存在に、毎日が素晴らしい夢を見ているかのように心踊っていた。その時は、甘美なときめきが永遠に続いていくものだと、信じて疑わなかった。


「最初は、背が小っちゃくて可愛い子だと思った。いかにも田舎から東京に出てきましたっていう感じの、純朴そうで、摺れてない感じが珍しかったな」

と、銀時が言った。学生時代の私のことを言っているのだと分かったので、興味半分に訊ねた。

「妙ちゃんとも一緒にいたのに、妙ちゃんのことは好きにならなかったの?」
「だってアイツ、男なんて必要ねェくらいしっかりしてて、強そうじゃん」
「じゃあ、どうして私だったの?」
「うーん」

銀時は大袈裟に頭を抱える真似をしてから、困り顔で笑った。

「お前と一緒にいたかったからかな。俺がいてやらなきゃって、そう思ったのかもしれねェな」

彼が私を選んでくれた理由の仔細なんて今更知りたいとは思わないけれど、彼とは本当に気が合うことが分かったし、家族のような関係を築ける人と出逢えたのは運命だと思う。
けれど今、恋をしていた頃の感情とは違うものを彼に対して抱いている。家族に対して側にいてほしいと思う気持ちと、恋人に対して愛してほしいと思う気持ちが同じくらいの割合で共存しているのだ。初恋のときめきは失っても、好きな人の前ではずっと女でいたいし、女として見て欲しい。それだから女は我が儘だとか、面倒臭いと言われるのだろうか。

彼は学生時代の面影を捜すようにじっと私を見つめてから言った。

「色んな事があったから、このところ。お前と最初に会った場所に来て、俺達の始まりってどんなんだったっけ、最初の頃の俺達を忘れてないんだってことを、確かめたかったんだ」

色んな事があったから、と銀時が言った時、隣人の顔が脳裡に過った。多分、銀時もそうだったろう。彼の横顔に険しい影が過り、思い詰めたような表情をするのを、私は見逃さなかった。

私が無くしかけた“女”の部分を見つけ出し、目覚めさせた張本人。毎月発売される文芸誌に、彼が執筆した物語が掲載されている。“高杉晋助”という名前を見るたびに、胸がきゅうっと締め付けられる。ライターとして記事を書くときにはペンネームを使い分けていると言ったのに、本名で作家デビューしたのは、どんな理由があるんだろう。
私は控え目に銀時に訊ねた。

「……文芸誌、読んでる?」
「もちろん」

私の問いに、彼は即答した。

「多分、連載が終わるまで買うと思う。いつか単行本が出たら買ってもいいかな。あーでも、俺が払った幾分かがアイツに印税入ると思うと、なんか癪。やっぱり買わないかも」

銀時が笑ったので、私もつられて笑った。

隣人の書く物語は、隣家の男と恋をする妻の話から始まり、家族それぞれの性の悩みや恋愛に焦点を当てながら連載が進んでいた。
発売される度に、登場人物に感情移入しながら夢中で読み進めているけれど、どんな結末を迎えるのか見当がつかない。隣人の物語の世界観は彼自身が生み出し、隣人しか結末を知り得ない。同じように、銀時との恋の始まりを知るのは銀時と私だけで、私達の未来は私達が決める。創作の世界でも現実でも、出来れば悲しい結末ではなく、ハッピーエンドを迎えて欲しいと願うものだ。同じように隣人の許にも、幸せが訪れてほしいと思う。

今頃隣人は、どんな風に過ごしているだろうか。書棚に囲まれた仕事部屋で、独りきりで閉じ籠って物語の続きを執筆しているだろうか。
確証はないけれど、隣人はもう、あのマンションに住んでいない気がした。私があの場所にいるのが苦しくて引っ越したように、彼も501号室と別れを告げただろう。

華々しく作家デビューしたのだから、都心にアクセスのよいタワーマンションにでも住んでいるに違いない。薄暗くて狭い仕事部屋で小さなPCに向かうより、東京の夜景を一望できるガラス張りの部屋を、広々と使って仕事をするほうがずっと彼らしい。
仕事に行き詰まったら煙草を吸いながら夜景を眺めて、きれいな恋人を部屋に呼んで、暖かい食事を食べて、温もりとともに眠りについてほしい。彼の持つ思い遣りや繊細さが、ただ物語に投影されるだけでなく、同じくらいの優しさで、誰か彼を包んであげてほしい。私にはただ願うしか出来ないけれど、どうか、そうであって欲しい。


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