SHORT STORY

□月は何処に宿る@
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京の夏は暑い。周囲を山に囲まれた地形のため風の吹き抜けがなく、肌にまとわりつくような暑さが夏の間中続く。
夕方にもなると、気だるい残照が熱気の中に沈み込み、蝉がそこかしこで暑苦しい合唱を始める。鴨川のあたりでも、御池通でも、雨が降るように騒々しく蝉が啼いていた。

谷家の屋敷でも、庭の梅の木に飛び移ったツクツクボウシが、独特の鳴き声で喧しく鳴きだした。その声を左右の耳で訊きながら、縁側では、梅之助が本を開いていた。
彼が汗を滲ませながらわざわざ縁側に出ているのは、客人の到着を今か今かと待っているからである。

暫くして、蝉しぐれをかき消すような明朗な声が、梅之助の頭上に響いた。

「相変わらず、京は暑いでござるな」

その声に梅之助はパッと顔をあげ、満面の笑みを浮かべた。

「……万斉さん!」


***


万斉は年に一度か二度、薫と彼女の息子、梅之助が暮らす京の屋敷を訪れていた。
梅之助にとって、母の旧い友人だという万斉の訪問は、大きな楽しみでだった。

谷家には、客間として使える小さな座敷があり、万斉が訪れた時はそこが彼の寝床となった。梅之助は食事や風呂を万斉と共にして、寝る前には客間に入りびたり、三味線を奏でたり刀の手入れをしたりする様子を、物珍しそうに観察していた。

「梅は、九つだったか」
「もう十歳になったよ」

万斉は梅之助のことを、親しみをこめて愛称で呼んでいた。父親のいない梅之助にとって、男同士というのは特別だった。万斉もそれを分かって、薫のいないところでしか訊けないような話をする。

「好きな女子(おなご)はいるのか」
「そ、そんなの、いないよ」
「怪しいな。そのうち、女のことが気になって仕方なくなるだろう。昔は、男は数えの十五で成人とみなされたものでござる。十にもなれば、後は大人の階段をひたすらに上るだけでござる」
「大人の階段って、どんな階段なの」
「じきに分かるでござるよ」

万斉は笑いながら、梅之助の、澄んだ眼差しを見つめた。
毎年こうして顔を合わせる度に、しみじみと思う。歳を重ね成長した梅之助は、父の面影がますます濃くなっていた。もう数年も経てば、その面立ちは父と寸分違わぬものになる筈だ。五年、十年と歳を重ねた梅之助の姿は、さぞ頼もしい事だろう。

「梅は、将来は何になるのでござるか」
「呉服屋に決まってるじゃないか」

薫の養親、つまり梅之助から見て祖父母にあたる谷夫婦は、老舗の呉服店を営んでおり、いずれは梅之助が商売を継ぐことになっている。
梅之助があまりに素っ気なく答えたので、万斉は質問を訊きなおした。

「何になる、という訊き方が悪かったでござるな。何になりたいのでござるか」
「………」

梅之助は答えに迷う素振りを見せてから、客間の隅を睨むようにして言った。

「別に、呉服屋が嫌な訳じゃないよ。谷屋のお爺さんお婆さんには良くしてもらってるし、おれが店を継ぐのを楽しみにしてる。谷屋を継げば安泰だし、母さんに苦労を掛けないで済むもの……」
「本当に、それがお主のやりたいことかどうかというのを訊いているのでござる。人生は一度きりゆえ、誰にでも、道を選ぶ権利はあるものでござる」

万斉がそう言うと、梅之助はおもむろに懐に手を差し入れ、一冊の教本を取り出した。
かつて、父が師に学んだ教本には、日本や中国の古典が書き連ねてあった。それらを書き残した人々の情熱、そして師から弟子へ、何代にもわたって受け継がれてきた数々の思想。それらに思いを馳せる度、梅之助はじっとしていられないような、何かを為さなくてはいけないような、言い知れない衝動に駆られていた。

彼はじっと教本を見つめながら、強い意志の宿る目をして言った。

「おれは、何百年、何千年経っても人に読まれるような、人の教えになるような……そういうものを、書き記せるようになりたい。次の世代の人達へ、伝えられるようになりたい。それがどういう仕事を指すのか、よくわからないけれど……」
「今は分からなくとも、お主が持っているのは立派な夢でござる。若いうちは、理想や目標というものを持つことがまず大切なのでござる。拙者ができることがあれば、手助けをしよう」

梅之助は膝を抱えて座り直し、万斉を見上げながら、秘密を打ち明けるように言った。

「おれ、いつか江戸に行きたい。母さんは、多分反対するだろうけど」
「江戸へ?」
「天人が作った、ターミナルっていう建物があるだろ。……見てみたいよ。この国だけじゃなくて、他の星を……」

だんだんと眠くなってきたのか、梅之助は膝の間に額をうずめて、ひとつ欠伸をした。

夢がある。行きたい場所がある。その思いを内に秘めているのは、母や祖父母の期待に応えようとしているからだ。梅之助には、十歳の子どもには似つかわしくない、妙に大人びたところがある。
万斉はそう思いながら、彼の小さな頭に手をやった。

「お前が思慮深く心が優しいのは、母に似たのでござるな。だが、お前の中には父の血も流れている。己の目で見たいのだろう。外の世界を……」

もし弟がいるならこういうものだろうかと思いながら、万斉は慈愛に満ちた眼差しで彼を見つめ、その柔らかな髪をそっと撫でた。



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