SHORT STORY

□月は何処に宿るA
3ページ/3ページ


「……ぬ」

頭の上から何かぼそぼそと声がして、薫は閉じた瞳をうっすらと開けた。
万斉は彼女から目を逸らすようにしながら、今度ははっきりとした声で言った。

「できぬ」

それがどういう意味なのか、薫が理解するより前に、万斉は彼女から離れた。そして彼女に背を向けて胡坐をかくと、乱れた浴衣を元通りに整え、己の手を懐紙で拭っていた。

その背中を見ながら、薫は戸惑いのさ中にいた。あれほど情熱的に触れて、二度も絶頂まで追い立てながら、出来ないと言われるなんて。一体どういう理由で、そんなことを言うのか。

「……先ほどのは、なんだったのですか」
「男なら、惚れた女が腕の中におれば、その具合を確かめてみたいと思うものでござる」

万斉が返した言葉に、彼女はカッと頭に血が上った。平手で引っ叩いてやりたい気持ちになる。彼女から誘ったようなものなのに、出来ないと男に言われてしまえばそこでおしまいだ。痴態を晒した自分がとても惨めで、怒りを通り越して呆れるくらいだった。

火照ったからだが急激に冷め、足の間のぬるついた感覚が煩わしくて仕方がなくなる。はだけた胸元をあわせ、さっさとこの場を離れようと起き上がると、万斉が呼び止めた。

「薫」
「あなたとは、何も話したくありません」
「待て、薫」
「いやよ!」

薫は着崩れた浴衣を引きずるようにして出て行こうとしたが、その手首を掴み、万斉は彼女を引き止めた。痣ができそうなほどに強く握り締めながら、彼は言葉を選ぶようにして問うた。

「このまま体を重ねて……その後、お前はどうするつもりでござる。翌朝何食わぬ顔で拙者を送り出し、一夜の出来事として終わらせるのか?……それとも……拙者の女になるつもりで、体を許そうとしたのか」

なんて馬鹿馬鹿しいことを訊くのだろうか。そう思いながら万斉を見上げると、彼は瞳に悲痛な色を浮かべて、じっと薫を見つめていた。

「一時の情に流されるのはたやすいことでごさる。だが、お前を組み敷いた時……夜が明けて独りになったお前が、後悔して泣く姿が目に浮かんだ。お前の中に、まだあの男がいるうちは……」

できぬ、と彼はもう一度言った。
晋助のことが脳裏をよぎったのは、確かだった。その一瞬の想いを読まれたような気がして、薫は万斉の手を振り払い、俯いて唇を噛んだ。

翌朝のことなんて、頭の片隅にこれっぽっちもなかった。情に流されたのではない、望んで流されたのだ。十年もの間、何かを求めることもせず、薫と梅之助をそっと見守る万斉の優しさが、もどかしくて仕方がなくなったのだ。
男と女は、割れたお椀のようなもので、二つが合わさって初めて水を満たすことができる。長らく片割れのままでいては、満たされることもなく、渇いてしまう一方だ。でも、誰でもいいという訳ではない。この人となら、そう思った相手が目の前にいるというのに、結局水を注ぐことはできない。

万斉は長い溜息をついて、汗で湿った髪をかきあげると、

「頭を冷やしてくる」

そう言い残して、大股で客間を出て行った。裏口の扉の開く音がして、こんな真夜中に何をするつもりかと思っていると、井戸水を桶に汲む音が聞こえてきた。文字通り、水を被って火照った体を冷ましているのだ。

どこまでも、どこまでも優しい男だ。薫はその場にへたり込んで、熱に疼く身体を自分自身で抱き締めた。



***



早朝、まだ薄暗いうちに、玄関の扉の開く音で薫は目が醒めた。縁側に出て外を見ると、旅仕度をした万斉が屋敷の門をくぐって出ていくところだった。
どうやら、薫にも梅之助にも、一言の別れも告げずに去るつもりらしい。彼女は寝間着のままで、慌てて外へ飛び出した。

「こんなに、早い時間に出発なさらなくても……。せめて、朝餉を召し上がってからにしてはいかがですか」

起き抜けの彼女の姿に、万斉はばつが悪いような薄ら笑いを浮かべ、サングラスで瞳を隠した。

「いや……今朝は遠慮しておく」
「では、梅之助が起きるのを待っていただけませんか。寝ている間にあなたが出発したと知ったら、あの子は淋しがるわ」
「いや、もう発つ。梅と合わす顔が無いでござる」

梅之助は年を経るほど晋助に似てきて、万斉は彼の中に晋助を重ねて見ている。合わす顔が無い、といった理由を察して、薫は気まずくなって口をつぐんだ。

昨晩の出来事は、無かったことにしてしまえばいいのだろうか。どのように振舞えばよいのか分からず、寝間着姿で目の前にいるのが気恥ずかしく、その場にいるのが居たたまれない。だが、送り出すにしても、顔を合わせた途端に別れがたくなる。二人は言葉を交わさぬまま、夏の朝の清廉な空気に身を置いていたが、暫くして万斉が言った。

「夜明け前に発とうと……そう思い支度を始めた時には、まだうっすらと西の空に月が見えていた。だが、夏の夜は短い。月はもう、何処にいるのかも分からぬでござる」

そう言われて空を見ると、白けた空にうっすらと雲がかかって、確かに月の姿は何処にも見えなかった。

薫は、ふと思い出した和歌を口ずさんだ。

「夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを
 雲のいづこに 月宿るらむ……」

夏の夜は、まだ夜になったばかりの宵口だと思っている間に明けてしまう。これでは月も西の山までたどりつけない。一体雲のどのあたりで宿を取っているのだろう……。夏の月を惜しむ気持ちを詠んだ歌である。

彼女はうっすらと微笑んで、万斉を見上げた。

「すぐに去ってしまうなんて、今朝のあなたは夏の月のようよ。何処に宿るかわからないのも、月と同じ。あの方に義理立てをして、あの方の為に私達を見守っている限り……あなたの心は、私の所へは来てくれないのね」

薫を抱くことをしなかったのは、彼女の為でもあり、晋助の為でもある。人生を変えた恩、そして総督として鬼兵隊を率いていた男への節義というものは、女ひとりとは比べ物にならない重さがある。

短い間にも、空には蒼白い明るみが広がってゆく。万斉は三度笠の紐を顎のしたで結び、薫に背を向けるようにして、

「拙者は、夏が好きではない」

と、ぼそりと言った。彼の逆立った藍色の髪に、朝の細い光が透けていた。

「とりわけ、京の夏は嫌いだ。夜が短いのも、月が儚いのも……。何かにつけて、京で初めて出逢った、夏生まれのあの男の姿が思い浮かぶ」

初めて出逢った、それは晋助との間だけに言えることではない。薫とも、万斉は時を同じくして出逢っていた。夏の京は、彼らの始まりの場所でもある。

「一生、忘れられぬ。あの夏……狂おしいほどに胸をかき乱されたのは、薫、お前がいたからでござる」

万斉は薫の方を一度だけ振り返ると、白藍の空気の向こうへと旅立っていった。どこか陰りのある広い背中を、彼女は見えなくなるまで見送った。後ろ姿が遠ざかっていくうちに、糸が細く長く引くような淋しさと孤独が、彼女の胸を締め上げた。

夏の月のように、束の間の陸み合いの記憶も翳んで消えてしまえばいいものを、彼の熱い手のひらの感覚は、肌のそこかしこにしぶとくくすぶっていた。



(おわり)
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ