鬼と華

□精霊蜻蛉 第一幕
2ページ/6ページ


話は、晋助と薫が嵐山を訪れる十日程前に遡る。
彼らは幕府の追跡を逃れるため、京から北側にある赤鬼寺に隠伏する暮らしを続けていた。季節は秋の深まりを迎えた、ある日のことである。

「拙者、江戸に行こうと考えているでござるが」

突然河上万斉がそんなことを言い出したので、薫は何事かと驚いた。
万斉によると、元より彼は晋助と共に、京周辺の反幕派の浪士集団と会合を持って情報交換などして活動していたが、噂では江戸の方で、攘夷派浪士の攘夷活動が活発化しているらしい。
その頃、京の町の状況はというと、蜊御門の変で大火に見舞われてから、幕府直轄の大規模な復旧工事が行われている最中だった。御所の再建と京都守護職の詰所建設のため、幕府や奉行所の役人は現地指揮や資金集めで方々を駆けずり回っている。当然攘夷浪士の取り締まりは手薄となり、万斉はこの好機を見逃さず京を脱し、江戸へと足を伸ばして情勢を見ようというのだった。ひと月程滞在し、また京に戻るつもりだと言う。


「薫、暫くは主の為に三味線を弾けぬでござる。御主も拙者と共に行かぬか」

万斉が冗談混じりで言う隣で、来島また子が目を輝かせる。

「私、まだ江戸の町を見たことがないッス。ターミナルも江戸城も、一度自分の目で見たいと思ってたッス!」

蜊御門の変で、幽撃隊の壊滅という痛手を負い、反逆者として幕府から追われる身となったまた子も、いつしか赤鬼寺に隠伏するようになっており、相変わらず晋助に心酔していた。

「また子は晋助様にお供いたします!晋助様、一緒に行きましょう!!」
「遊びにいく訳ではないでござる。また子、御主は追われる身であることを忘れているな」

万斉がまた子を諭す様子にふっと笑いながら、晋助は薫に尋ねた。

「薫、お前はどうする」
「私は…………」

薫は、言葉を濁して俯いた。

江戸と聞けば、彼女には忘れられない過去がある。攘夷戦争の終結と同じ時期、晋助と彼女は幕吏の追跡を逃れ、長らく江戸の旅籠に潜伏していた。晋助が戦で負った傷を癒して隠れ暮らす日々、鬼兵隊の仲間が粛清されたのも江戸の河原であった。そのことは、まだ万斉やまた子には明かしていない。
江戸という地名を訊くだけで、おぞましさが込み上げてくるのを抑えられなかった。

「気乗りしないなら、晋助様には私だけついて行っちゃうッスよ。いいんスか、薫姐さん」

いつもは反論するはずのまた子の冗談にも、薫は曖昧に笑うことしか出来なかった。



◇◇◇



そして、江戸へと出立の日。
旅支度はしたものの、薫は悶々とした思いを抱えたままだった。忌まわしい記憶の残る江戸に行くのは、やはりどうしても気が進まなかった。

明け方に目覚めた薫の隣で、ほぼ同じ時に晋助がむくりと起き上がる。
彼は小さな声で、薫に告げた。

「行くぞ、薫」
「えっ……?」


しばれるように冷え込む明け方、赤鬼寺を囲む鬱蒼とした森を、晋助はどんどん下っていく。彼が厩(うまや)に向かっているのは薫にも分かった。
晋助は、万斉とまた子を差し置いて行こうとしている。行き先は、彼らと目指す江戸なのか、別の場所なのか。

「晋助様、一体何処へ行かれるのですか。万斉様やまた子さんを置いていくなんて」
「安心しろ。お前を江戸には連れて行かねぇよ」

晋助は薫を振り返って言った。

「俺達にとっては、江戸は一度終わりを迎えたような場所だ。お前の顔に、行きたくないと書いてあるぞ」
「ですが……勝手にそのようなことをしては、万斉様が心配するのでは?」
「“四人仲良く連れだって江戸に行く”、そんなこたァ、俺は口にした覚えがねぇよ」

厩に到着し、晋助は馬銜や鞍を手際よく馬に装備していく。

「万斉には、既にそれとなく伝えてある。俺は後から万斉を追うつもりだが、お前は京に残っていてもいい」
「では……これから何処へ?」
「この季節に、どうしてもお前を連れていきてぇ場所があるのさ。俺と出掛けるのは、嫌な訳じゃあねェだろう」

晋助は薫の手を引いて鞍に跨がせると、馬の腹を蹴って手綱をひいた。
真夏の夜、初めて赤鬼寺を訪れた時のように、ふたりは馬に乗って駆け出したのである。


.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ