鬼と華

□君に捧ぐ百代草 第一幕
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江戸湾近郊の船着き場に停泊した、巨大な船。
外観は貨物船のようだが、その実は攘夷派集団、鬼兵隊が密かに潜伏する住みかでもある。


満月の夜、秋の海にはひんやりとした風が吹きわたっている。船の甲板では、ひとりの男が煙管を手に紫煙をくゆらせていた。

「つまらねェ」

男は小さな声で呟く。
白く揺らぐ煙が風にかき消されていく様子を眺めつつ、彼はもう一度言った。

「つまらねェ」
「何か言ったか、晋助」

そう尋ねたのは、彼の傍らに座る男。甲板に胡坐をかき、砥石や打ち粉を膝元に置いて刀の手入れを施している。
彼らの名は、高杉晋助と河上万斉。鬼兵隊を束ねる総督の名を背負う男と、彼を支え行動を共にする、剣豪人斬り万斉の異名を持つ男である。

「俺ァつまらねェと言ったんだ」

高杉晋助はそう言って、甲板を囲む鉄製の柵にもたれ掛かり、煙管の灰を海へと捨てた。

「京で人を斬り、江戸でも人を斬り……そんなことを繰り返して何が変わる?人が死ねばそいつの世界は滅ぶ。だが、俺達の世界はちっとも変りゃあしねェ。俺達は同じ場所で、ただ足掻いてるだけじゃねェのか」
「いつになく苛立っているでござるな」
「お前には分からねェか、万斉」

晋助は懐から新しい煙草を取り出し、煙管に火を灯した。

「腹ン中のどす黒いモンが牙を剥いて、殺せ、壊せと……四六時中騒ぎやがる。幕府の連中に復讐を遂げたところで、ちっとも収まりやしねェ」

煙とともに、晋助は吐き捨てるように言った。

「いっそ、傍にあるモン片っ端から斬り捨てて……全部壊しちまえば楽になるかとも考えちまうよ」
「随分と恐ろしいことを言うな」

万斉は声をあげて笑い、刃を磨く手を止めて晋助を見上げた。

「晋助、主が幕府の警察筋から何と呼ばれているか、知っているでござるか」
「さァな」

まるで興味なさそうに煙管を弄ぶ晋助の様子を眺めつつ、万斉は言った。

「攘夷志士のなかで最も過激で最も危険な男″……これまでの一連の所業で、主にはそんな呼び名がついたのでござる。お国の警察に恐れられる攘夷志士が、己を律することも忘れ暴走してどうする」
「そりゃあ、俺のせいじゃあねェ」

晋助はフンと鼻で笑った。

「お前や武市が仕組んだ攘夷党との会合やらを重ねるうちに、鬼兵隊は船ひとつで手狭な程の大所帯になりやがった。最早俺の知らねえ所で、幾つもの事が進んでいやがる。それでも総督なんざァ呼ばれちゃいるが、剣ひとつで天人とやり合ってた昔とは訳が違う」
「どう違うでござるか」
「俺ァ、名前も顔も知らねェ連中の大将やるような器じゃねえ。攘夷浪士のごろつきどもの頭に担ぎ上げられるよりも、気儘にお山の大将やってるくれェが性に合ってる」
「今も昔も、主に惹かれて人が集うのは変わらぬ。それに、世界を壊すなどと宣ったのは何処の誰でござるか。大事を成すには人もいるし時間もいる。辛抱もいる。腹の中に巣くう獣を飼い馴らせるようにならねば、法螺は法螺のままで終わるでござるよ」
「……万斉。てめェ、いつの間に俺に説教するようになりやがった」

ククク…と晋助が笑っていた時だった。船内から、ひとりの女が甲板へ出てきた。
寝間着の白い浴衣、風よけに肩に羽織をかけている。女は不安げな面持ちで晋助を見つめ、小さな声で尋ねた。

「晋助様……まだ、お休みにならないのですか」
「独りでは眠れぬでごさるか、薫」

万斉がからかうように言うと、女はムッとした表情で彼を睨む。その時ひゅうと横殴りの風が吹いて、女は肩を竦めて羽織を押さえた。浴衣の裾がめくれて白い素足が覗き、裸足に草履を履いただけの足許は、ひどく寒そうだった。

晋助は、穏やかな目で女を見た。

「夜は風が強い。そんな薄着で出てきたら冷えるぞ」
「でも……」
「すぐに行く。寝屋で待っていろ」

晋助がそう言うと、女は振り返りつつ船内に戻っていく。二度目の煙草をじっくりと味わい、吸い終えた晋助が彼女の後を追おうとすると、

「待て。晋助」

と、万斉が彼を呼び止めた。

「女の前では、あのような恐ろしい事を言うでないぞ。薫にとっては、主の本心など知らずにいた方が幸せでござる。……今宵のこともな」
「あァ。分かってらァ」

晋助は短くそう答えると、万斉に背を向けて歩き出した。そして無造作に、返り血で赤黒く染まった着物を束ねて、海の中に投げ捨てた。


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