鬼と華

□黄鶯開v 第二幕
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朝、遠くで鳥の鳴く声がする。それがウグイスの声だと気づき、薫はゆっくりを目を開けた。
ウグイスは春を告げる鳥。雪の残る山間の地にも春が近づいている。鳥の囀りで目が覚めるなど、宇宙(そら)や船にいては経験できないことだ。旅先の北の地で春を知る、そう思うと、なおのこと気分が清々しい。

手をついて寝床から起き上がろうとした薫だが、突然背後からぎゅっと腕が回され、再び布団の中に引き込まれてしまった。彼女はふふ、と笑いながら後ろを振り向いた。

「どうなさったの。晋助様」
「……まだ、起きるなよ……。お前がいなくなったら、寒い」
「今朝は随分と寒がりなのね」
「俺ァ夏生まれだからな。寒いのは苦手だ」

残雪に囲まれた旅籠は、朝の空気がキンと冷えていた。晋助は薫を抱き寄せうなじに鼻先を寄せると、両方の手のひらで彼女の乳房をそっと抱えた。

「こうでもしねェと、寒くて凍えちまいそうだ」
「あっ、そうだわ」

彼女は晋助の手をパッと避けると、顔色を窺うようにして、彼の顔を覗き込んだ。

「私、今から出掛けてきてもいいでしょうか。実は今日も、加賀山先生のお宅に行くお約束を」
「また爺さんの屋敷に行くのか」
「その……人手が足りないようなので、お手伝いの約束をしたのです。暫くの間、通っても構いませんか?」

言葉を濁して言うと、晋助がじっと薫を見つめ返してきた。起きたばかりの顔をまじまじと見られるのが恥ずかしく、ふと目をそらすと、彼の髪が四方に跳ねているのが視界に入った。寝癖がついているのだ。

彼女は晋助の髪を撫でつけて元に戻しながら、艶やかな髪の束をすいて微笑んだ。

「晋助様、起きたばかりは、何だかぐんと幼く見えるのね。それに寒がりで甘えん坊。可愛らしいわ」
「……朝から俺をからかってるのか」

晋助は腕の力で薫を組み敷くと、腰を抱くようにして、首筋に唇を這わせた。

「悪ふざけが過ぎると、暫く何処にも行けねェように、立てなくしてやってもいいぜ」
「や、晋助様!もう」

薫は耳まで真っ赤にして逃げだした。彼女の反応を面白がってから、晋助も起き上がり髪をかき上げる。

「爺さんには、隊の連中が世話になってる。俺も時間をみて挨拶位しに行くか」

薫はそれには答えずに、毎朝の習慣でもある薬の服用をしてから、髪を結わえて着替えをした。支度を終えた彼女は急ぐように旅籠を後にし、それから間もなくして、入れ違いに万斉がやって来た。

「一段と冷える朝でござるな」
「何だ万斉。こんな朝っぱらから」

晋助は顰めっ面で、寝覚めの一服に煙管に火をつけた。万斉は外套を着たまま彼の側に寄ると、ひっそりと耳打ちした。

「三天の怪物殿が動いたぞ」



◇◇◇



薫が加賀山邸に着くと、母屋の廊下を、サキがよろよろと壁伝いに歩いているところだった。

「サキさん!」

彼女の手には汚れものがあった。水場で洗いものをするつもりなのだと悟って、薫は慌てて彼女を諭した。

「お産の後は、水仕事はしてはいけませんよ。お体に障ります。私がやりますから、横になっていてくださいな」
「でも……」
「お手伝いする為に私がいるのです。さあ、戻りましょう!」

サキの手をとって座敷に戻る途中、ちょうど加賀山が起きてくるところだった。大きな欠伸をひとつして、彼はサキの様子を窺った。

「おお、サキさん。ゆうべは眠れたかい」
「それが……妙に頭が冴えてしまって、一睡もできませんでした」

サキが困り顔で言うと、加賀山は共感するように何度か頷いた。

「お産の後はねえ、疲れてるはずなのに興奮しちまって、全然眠れねえって人は多いよ。でも暫く経てば、眠れるようになるさ。時間が解決するもんだ」

彼はそう言いながら、サキの布団の隣に寝せた赤ん坊を抱き上げた。

「ちょっと赤ちゃんの具合を診るから、居間の方に連れてくよ。その間休んでな。横になってるだけでも、体は休まるからさ」

加賀山の診察が終わった後も、サキを休ませるため、彼は赤ん坊を居間に寝せておいた。そして薫が朝餉の仕度をしながら様子を見ていたのだが、途中までは大人しく眠っていたものの、突如火がついたように大声で泣き始めてしまった。

「よし、よしよし……」

薫は慌てて、赤ん坊の側に駆け寄った。顔を真っ赤にして、手足を踏ん張るようにして泣いている。抱いてあやそうにも、生まれて間もない赤ん坊に安易に触ってはいけないような気がして、結局オロオロとして加賀山を呼び出した。

「こんなに泣いて、具合でも悪いのかしら……」

不安そうに言うと、加賀山は笑いながら、

「赤ん坊は目はまだ見えねえが、耳は腹ん中にいるときから、しっかり聴こえてる。人の声や体温はちゃんと感じるんだよ。こうやって……」

と、慣れた手つきで赤ん坊を縦抱きにすると、トントンと優しく背中をたたいた。

「心臓の音が聞こえるように、胸にくっつけて抱いてやると安心するんだよ。赤ん坊は泣くのが仕事だ。腹が減って泣く、眠たくて泣く、抱っこしてほしくて泣く……喋れねえから泣くしか出来ねえが、泣くのにはちゃんと理由があるんだよな」

男の大きな手や太い腕が安心するのか、赤ん坊の泣き声は止み、頼りなげに手足を動かしていた。

「春になれば 氷(しも)こが解けて」

と、加賀山は歌を口ずさみながら、赤ん坊をそっと揺らした。

「どじょっこだの ふなっこだの 夜が明けたと思うべな」

東北地方のわらべ歌だった。どこかで耳にしたような、不思議な懐かしさがあり、薫は微笑んで言った。

「素敵な歌。川の魚たちにとっては、春は夜明けと同じなのね」
「そうだなぁ。冬のあいだ、水底でじいっとしてた魚が、明るくなって水面にあがってくる。春は、魚も虫も、花も樹も動き始める。この子は、そんな季節に生まれたんだ。毎年毎年歳を重ねる時には、春の息吹がある。……恵まれた子だよ」

大人にとっての一年や二年はあっという間に過ぎてしまうけれど、子どもはほんの一年の間に驚くほどの成長を遂げる。生まれて間もなくはこれほど小さく頼りないのに、次の春が巡る頃には、きっと自分の足で歩けるようになっているだろう。

「サキさんは大変ね。お産で頑張って、また赤ちゃんを育てるのに頑張らないといけないもの。私にできることはあるかしら」
「そういや、乳の出には根菜がごまんと入った汁物がいいって、昔から言うよ」
「じゃあ、明日からは毎日根菜汁を作ります。この子がお乳をたくさん飲んで、大きくなるように」

薫が赤ん坊を覗きこむと、彼は歌の心地よさにいつの間にか目を閉じて、穏やかな寝息をたてていた。


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