鬼と華

□黄鶯開v 第四幕
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加賀山邸、縁側の障子を開け放ち、サキは庭を眺めていた。東寄りに吹き付ける風が、庭の木々の枝を揺らしている。
東風は氷を解き、春を告げる風。真冬の風とは違い、どこか温みのある空気が肌を撫でていく。サキは風に触れようとするかのように、手のひらを外へと伸ばした。

その様子に気付いた薫は、慌てて障子を半分まで締めた。

「サキさん、あまり風に当たらない方がいいわ。風邪をひいたら大変よ」
「ずっと横になってばかりでしたから、外の空気が恋しくなってしまって」

とサキは微笑み、障子の間から空を見上げた。あいにく天気が悪く、分厚い雲が空を覆い、青空は欠片も見えなかった。

「東風が吹くと寒さが和らぐというけれど、今にも降りだしそうな空ね」
「春の風は、たいてい雨も一緒に運んできます。そうして一雨ごとに暖かくなっていくんです。サキさんが床上げしてお家に戻る頃には、すっかり春の陽気のはずですよ」

薫はサキの横顔を密かに窺いながら、加賀山から忠告を受けたことを思い出していた。
サキは、幕府の重役、見廻組局長である佐々木異三郎と接点を持つ。彼に薫と晋助が深い関係にあると悟られるのを危惧して、加賀山は代わりの世話役を見つけてきた。お産の翌日から共に過ごしてきたサキとは、別れの時が近づいている。

やがて、彼女の思惑を読んだように、サキが口を開いた。

「薫さん、もうすぐ、此処へは来れなくなるんですってね」
「……ご存じだったの、サキさん」

薫自身からは言いにくいだろうと、加賀山が先んじてサキに伝えたのだろう。
サキはじっと俯いていたが、暫くしてから、

「私……本当は、この村の人間ではありません」

と躊躇いがちに薫に告白した。

「誰も知り合いのいないこの村でお産をすると、決めたのは私自身です。でも、あの子を産んでみて……」

そう言いながら、奥の座敷で眠る久久に視線をやった。

「赤ん坊は言葉も通じないし、泣いてばかりでどうしたらよいか分からないし……ちゃんと育てていけるのか自信がなくなりそうで、毎日不安でした。薫さんや先生が支えてくださらなかったら、私は……」

子どもを育てる、人生で初めての経験に戸惑い悩むのは、当然のことかもしれない。薫は久久の愛らしさばかりを見ていたが、親というのはそんなに気楽なものではない。サキは人知れず、母親としての責任と戦っていたのだ。
薫はサキの白い手を、そっと握った。

「お母さんになって、まだ十日も経っていないんですもの。子育ても何事も、きっと前に進むばかりじゃないでしょう。でも、少なくとも私には、サキさんが誰よりも立派なお母さんに見えます」

薫がそう言うと、サキはぎこちなく微笑んで、ありがとう、と言った。
サキと久久と別れても、きっと忘れられないだろう。命が誕生する尊さや、母が我が子に向ける、眼差しの暖かさ。それらに初めて触れて、薫は自分自身もいつかそうありたい、愛する人の子どもを持ちたいと、そう願うようになったのだ。


その頃、屋敷の垣根の向こうから、彼女達をじっと窺う浪人がいた。薫と談笑するサキを観察し、浪人は、口許を歪めてひっそりと笑う。

「あの女……間違いないな」



◇◇◇



その日の夕刻、佐々木異三郎が加賀山邸を訪れた。加賀山は往診で外出していたので、薫が出迎えると、異三郎はサキと二人で話をしたいと言って、奥の座敷に引っ込んでしまった。

夕餉の仕度をしながら、薫はもやもやと考え事をした。

(警察組織の頭目の佐々木様とサキさんの間に、一体何の繋がりがあるのかしら)

異三郎はサキの親戚だと言ったが、それも恐らく嘘のような気がする。

(きっとサキさんには、何か伏せなければらならない事情があるんだわ……)


暫くして、加賀山が往診から帰宅した。外套を脱ぐと下は白衣のままで、彼は寒そうに肩をすくめて火鉢に当たった。

「日が傾いてから急に寒くなってきた。夜には雨になりそうだな」

台所の薫に向かって、そう話していた時だ。彼の帰宅とほぼ間を置かずして、ガラガラ、と玄関の扉が開く音がした。
来客にしては挨拶のひとつも聴こえないので、薫と加賀山は顔を見合わせ、不審がって玄関へと向かった。

そこには、帯刀した浪人が立っていた。加賀山も知らぬ男のようで、彼は首を傾げて尋ねた。

「ん?どちらさんだい。家に何か用でも、」

言葉は、そこで止まった。浪人が腰の刀をザッと抜き、突然袈裟懸けに斬りつけたのだ。
加賀山は両手を広げるようにして、どおっと仰向けに倒れ込んだ。斬られた場所から鮮血が噴出し、白衣を真っ赤に染めていく。

「ひっ……」

突然の出来事に、薫は腰を抜かして後ずさりした。逃げようにも、足に力が入らず動けない。手をついたまま、ずるずると後退することだけで精いっぱいだ。
浪人の刃が薫へと向かおうとした時、彼女の背後から、バァン!!と耳を劈くような轟音が響いた。直後、浪人の体がぐらりと傾いて、真横に倒れる。

何が起きたのかと振り返ると、拳銃を構えた異三郎が立っていた。銃口から細い煙がたなびき、火薬の匂いが鼻をつく。彼が放った銃弾が浪人に命中し、薫を救ったのだ。

「さ、佐々木様……」
「早く、奥へ!」

異三郎は薫を急かして、奥の座敷へと連れて行った。そこではサキが久久を抱きしめ、脅えた目をして異三郎の到着を待っていた。

「異三郎……」

サキがか細い声で呼ぶ。異三郎はこめかみに手を当てて、自らを落ち着かせるように、深い息をついた。

「まさか、ここが嗅ぎつけられるとは……」
「一体、何が起こっているのですか……?!どうして先生が……」

薫が動揺を隠せずに異三郎に詰め寄ると、彼はサキの様子を窺いつつ、

「アナタを巻き込んでしまった以上、伏せておく必要はありませんね」

そう前置きしてから、薫に打ち明けた。

「サキさん……いえ、中根咲さまは、一橋喜々公の御側室でいらっしゃいます。そして久久さまは、お世継ぎとなられる一橋家の御長男です」

薫は驚き、サキと久久を交互に見た。
一橋派、現将軍から政権を奪取しようとする幕府内の派閥だと聞いたことがある。まさかサキが、次期将軍として推される男の、側室だったとは。

「私は先代の斉斉公にお仕えした時代から、一橋派の発展のために汚い真似も厭わずにやってきたつもりです。しかし、そのしっぺ返しが来てしまったようだ。側室にお世継ぎが産まれたとなれば、一橋に同調し難いとする対抗勢力にとって、恰好の標的となってしまいます」
「では……あの浪人の狙いは、サキさんと久久ちゃんだったということ……?」

サキは真っ青になって、腕に久久をかき抱いている。異三郎は彼女を気遣うように、両の肩に手を添えた。

「少しでも危険を逃れたいと、江戸を離れ秘密裡に御子を産みたいと願われたのは咲さまですが、この計画を承り実行に移したのは私です。喜々公、一橋派の重鎮、咲様の侍女でさえ、ここに潜伏することは内密にしてあります。ここは私と咲様しか知りえない、極秘の場所なのです。それがバレたということは……」
「一橋派を潰そうとしている人達が、国中に手足を伸ばして、弱みを探っているのね」

産後体力が衰えたサキと、小さな久久の命を狙うなど、なんと卑劣で残酷なことだろう。薫の中では、恐怖と激しい怒りがせめぎ合った。

「あの浪人は、徳川定定の手下なのでしょうか」
「分かりません。ただ、何としても賊の襲撃から咲様と久久様をお守りしなければ」
「ですが……」

薫が何か言おうとするのを、異三郎が制した。彼は目を閉じ、屋敷の外の気配を窺うように耳を澄ませていた。ごく微かな音だが、垣根の向こうを駆ける音、低い話し声が聴こえてくる。
それは加賀山を斬りつけた浪人以外にも、襲撃者がいることを物語っていた。この窮地から、サキと久久を救わなければならないことに、薫は足元が竦むような思いがした。

「外に十人……いや、二十人」

異三郎が呟いたのと同時に、ガタ、と廊下で音がした。彼は拳銃を手に飛び出す構えを見せ、

「逃げてください!」

と薫に指示をした。彼女はサキに目配せすると、サキが久久を抱き上げるのと同時に、サキの肩を抱くようにして駆け出した。



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