鬼と華

□胡蝶之夢 第一幕
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それから何の話をしたのか、男は覚えていない。彼が一橋邸を辞する頃には、上弦の月は西側の街並みに消え、空は深い闇に包まれていた。

(新時代を、私の剣で……)

人けのない夜道を進みながら、男は思う。一橋喜喜、彼との親交が始まったのはいつのことだったか。次期将軍と噂される彼の意向を汲んでおきさえすれば、池田家の将来は約束されると、家中の者は口を揃えていた。

公儀御試御用は、将軍家に収められる刀剣を管理する腰物奉行の支配のもとにあり、れっきとした幕府の役目だった。しかし池田家には幕臣の地位はなく、浪人の身分のままだった。死人を扱うという穢れた役割のために、長らく不遇な扱いをされてきた。
そのため一橋に取り入り幕臣の地位を得ることは、家中の者の切願だった。そのためにも、喜喜に取りたてられるほどの働きと忠誠を示さなければならない。

そんなことを考えていると、突然、背後に人の気配がした。

「……っ!」

長年、剣と共にあった男の直感は鋭かった。ただならぬ気配を察し、彼は腰の刀の柄を掴み振り向きざまに剣を抜いた。

「……どちら様ですか。そんな物騒な気を放ちながら、私の背後に立たないで頂きたい」

振り向いた先には、編み笠を被った浪人が、口許に涼し気な笑みを浮かべて立っていた。
男は警戒しながら、浪人の様子を注意深く窺った。

「処刑人の剣は、誰の命でも一瞬で奪います。御用件は、何でしょう」
「用件など、たいそうなものじゃねェ。通りすがりの浪人の、ただの独り言だと思って聞いてくれ」

浪人は声を潜め、丸めた書状をすっと手渡した。
男は警戒しつつそれを開いた。書状一面に、人名が羅列されてある。その数、ざっと数十名。

「それに記されたのは、公儀処刑人の名のもとで粛清されるはずだった攘夷浪士の名だ。奴らは素性を変え名を変え、今も市中で生きている。何故なら、奴らの処刑は今もなお執行されていないからだ」
「何故そのようなデタラメを。先代が罪人達を逃がしていたとでも言うのですか」
「疑うなら本人に聞いてみるがいい。過去を洗い、つぶさに調べ上げればすぐにわかることさ」

浪人は編み笠の向こうの瞳を鋭く光らせ、その場を立ち去った。彼の片目は包帯で覆われており、男は書状を握り締めたまま、彼は一体何者なのかと思いを巡らせた。
その数日後のことだ。書状に記された罪人を調べ上げ、先代に問いただしたところ、浪人が言ったとおり、先代の過去の過ちが明るみに出た。それから男の決断は早かった。お家を護るという名目で先代夜右衛門、十七代目を継いだ朝右衛門を池田家から抹消した。この時から男は喜喜の言葉のとおり、十八代目池田夜右衛門の名を継いだのである。



◇◇◇



池田家に幕閣の地位を与えるため、裏で動いてほしい。そんな依頼を、晋助は佐々木異三郎から秘密裡に受けていた。
池田家は世襲制ではないため、剣の才能のある粒揃いの弟子を抱えている。そのため敵にしておくのは危険として、異三郎は一橋派に引き入れたいと考えていた。だが長らく浪人の地位にある家を幕臣に取りたてるには、それなりの大義名分が必要である。そこで、過去に一橋に敵対した攘夷浪士達、その中に処刑を免れた者がいることに目をつけ、一橋に義理立てする機会を作った。
異三郎の依頼を受けた晋助は、鬼兵隊の隊士達を使って先代当主が逃がした罪人の素性を調べさせ、書状へしたためて十八代目へ渡したのだ。


事は異三郎の画策とおりに進み、ある晩のことだった。江戸湾の船着き場で、検視役の確認のとれた罪人の死体が、次々と船に積み込まれていた。処刑が執行され、公儀御試御用のものとなった死体を運搬するためである。
船着き場で船を見送るのは、見廻組局長、佐々木異三郎。

「これで池田家の地位は安泰でしょう。アナタのお陰です」

と、異三郎は声を潜めて言った。彼と少し離れた場所には、編み笠を目深に被った浪人の姿があった。晋助である。

「面倒な仕事を押し付けてしまって、スミマセンねえ。警察である私が表立って動くには、聊か問題があったものですから」

異三郎がそう言うと、晋助は煙管を片手に、フンと鼻を鳴らして笑った。

「実親の罪を暴くだけじゃ飽き足らねェ、親を殺めてまで幕閣の地位に執着するとはな。だいだい、池田家ってのは世襲制じゃなかったのか。最初から実子に継がせておけば、親を殺めずとも済んだだろうに」
「池田家当主は、数多の弟子の中から腕の立つものを選んで引き継ぐことになっています。罪人の首を斬るような仕事を、子にやらせたくはない……もしかしたら、そんな親心があったかも知れませんがね」

死体の入った棺桶が積み荷のごとく運ばれる様子を眺めながら、異三郎は遠い目をした。

「先代夜右衛門が罪なき者、軽罪の者を陰で逃がしていたのは、処刑人としての己の矜持があったんでしょう。いくら己の判断、己の責任とはいえ、明るみに出ればお家取り潰しを免れない。そんな危険を冒してもなお、処刑人のあるべき姿というものを、次の世代の者達に伝えたかったのか……」
「今更何を言っても遅ェよ。十八代目は親を殺めて、首斬り役人の当主の地位と、お家の未来を得た。結局、首斬り役人の子は首斬りだったという訳だ」

晋助は皮肉をこめて言った。家の存続も幕閣の地位も、どれだけの価値があるのかなど知ったことではない。だが一つだけ分かるのは、時代が移り変わろうとも、処刑人たる者の役割は変わらないということだ。有力な派閥に与することよりも、己の剣、己の役割を護るために命を削った先代夜右衛門の生き様の方が、よほど共感が持てた。


「それでは、後のことは頼みます。エリートは多忙なもので、大事な用事がありますから」

異三郎は晋助にそう告げると、踵を返して船着き場を去った。
それから暫くして、船着き場に立派な装備の船が到着した。一橋喜喜と十八代目夜右衛門が乗った、一橋家の私船である。晋助もまたその船に同乗し、彼らは死体を運搬する船を追い出航した。



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