鬼と華

□胡蝶之夢 第四幕
1ページ/4ページ


天高く抜けるような青空に、鱗雲が遠くまで続いている。横浜港に停泊した鬼兵隊の船には、冷たく澄んだ陽射しが降り注いでいた。

涙がでそうなほどに眩い空を仰ぎ見て、晋助は甲板の縁に寄りかかり煙管に火をつけた。この日は船医の加賀山瑞仙が船を訪れて、薫の診察をしていた。母子ともに異変なく、どうか順調であってほしい。そう思うと、気持ちがそわそわとして落ち着かなかった。頻繁に煙管の吸い口へ唇をやり、空を眺めていると、武市が側にやってきた。

「薫さんを案じておられるのですか、晋助殿」

武市は胸のあたりに手をあてて、しみじみとした様子で言った。

「薫さんがお母さんになるだなんて……。私には、娘が結婚して孫ができるような思いがいたします。こそばゆいような、どこか照れ臭いような……」
「お前にゃ子どもがいねェのに、孫ができる訳がねえだろう。だいたい薫とだって、親子ほど歳が離れてるって訳でもあるめェ」

武市含め船にいる者には、既に薫の妊娠を伝えてあった。皆がこぞって喜び、船に祝福の嵐が渦巻いたのはつい先日のことである。
その名残もあって、彼らは和やかに談笑していたが、武市はふと真顔になり、

「ところで……伊賀衆の動きについてご報告が」

と、声を潜めて言った。

「藤林殿の配下の忍び達を、ひそかに殿中に潜り込ませております。護衛役として、御庭番と同様の務めを果たしているとのこと……彼らが一橋派の手先であるとは、容易には気付かれますまい」

一橋派に味方するよう晋助が伊賀衆と交渉してから、里は将軍暗殺に協力する恭順派と、要求を拒み徹底抗戦の構えの主戦派とに二分していた。恭順派の筆頭は藤林鎧門、主戦派は百地乱破である。
次期御庭番頭目の地位、里の実権という甘言にのせられてか、藤林は晋助の策に協力的だった。里の忍びを次々に江戸に送り込み、元御庭番と称して殿中に配し将軍の周囲を固めていた。里の上忍、藤林家が一橋派に寝返り、暗殺の片棒を担いでいるなど、誰もが夢にも思っていない。

「一橋の背後には春雨がいます。彼らに忍びの技が通じないことは、百地殿とて分かっているはず。抵抗しようとも、伊賀衆の行きつく先は同じ……」

武市はそう言って、眩しい空を見上げて目を細めた。

「だんだんと、終わりが見えてきましたな」

春雨との同盟、一橋派との結託。数々の段階を経て、暗殺計画を実行に移すところまで来た。鬼兵隊の参謀として、晋助を陰で支えていた彼にとっては、感慨深いひと時だった。




◇◇◇



その頃船の医務室では、加賀山が薫の妊娠の経過を診ていた。
彼女の表情を見るなり、加賀山は安心したように言った。

「顔色がよくなったな。悪阻はおさまってきたかい?」

彼女は頷き、待ちきれない様子で報告した。

「先生、先日嬉しいことがありました。胎動が分かるようになったんです」

胎児が大きくなるにつれて、胎児の手足の動きが感じられるようになり、それは胎動として母親に伝わる。薫は目を細めて、下腹を覗き込むように見おろした。

「悪阻が酷い時期は毎日がつらかったけれど、こうして動いているのが分かると、可愛らしくて仕方ないわ。本当に、赤ちゃんがお腹にいるんだって分かるんですもの……」
「それを母性って呼ぶんだよ」
「よく動いて元気だから、男の子かしら。それとも女の子かしら」
「晋助さんは何て?」
「女の子がいいそうです」
「じゃあ、そうなるといいなあ」
「ええ。早く会いたいわ」
「いやいや、早く産まれてきちゃあ困るよ。出産予定は年が明けて……」

加賀山は目を細めて暦を数えた。

「三月の初めだ。ちょうど、梅の咲く頃だな」

梅の花、と彼は呟き、顎に手を当てて何かを思い出すような仕草をした。

「……東風吹かば匂いおこせよ梅の花……だっけ」

菅原道真公が詠んだ、有名な句だ。“主なしとて春を忘るな”、と続く。彼が謀略によって大宰府に左遷されるときに、愛でていた梅の木に詠んだという句だった。

「梅の花は確かに香りがいい。でも、都から大宰府まで香りを届けるのは無理だろうよ。そう思わないかい?今時期に咲く金木犀だって、そんなに遠くまでは届かねえさ」

薫はクスクスと笑いながら、船の小窓の方に視線をやった。

「もう、金木犀が咲く季節なんですね。近頃は寒くなって、船にこもりがちになってしまって……」
「ずっと船にいてもよくねえな。妊婦には適度な運動は大事だよ。天気のいい時に、外に出て歩いてみるといい。腹ン中にいても、胎児には外の音がちゃんと聴こえてるよ。外の世界の音を聞かせて、たくさん話しかけてやった方がいいぞ」
「外の世界……」

一日のほどんどを、産着を縫うなどして船で過ごす薫には、つい忘れていた。空の青さや陽射しの暖かさ、子どもに伝えたいものは外の世界に溢れている。
そう思うと、小窓から覗く澄み切った空が急に恋しく、彼女はうずうずと気分が騒いだ。



次へ
前の章へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ