鬼と華

□胡蝶之夢 第四幕
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加賀山が言ったとおり、気分転換に外へ行こうと、薫は身支度をして甲板に出た。晋助の姿を捜したが、用があって出かけてしまったらしく、彼女が一人で船を降りようとしていると、

「おや、いずこへ行かれるのですか」

と、武市に呼び止められた。薫が散歩に行くと伝えると、彼は急いで外套を着て編み笠の用意をしてきた。

「外へ出るならお供しましょう。道中、あなたの身に何かあっては一大事ですから」


薫と武市は船着き場を出て、町の方へと向かった。海を離れるにつれて、何処からか風にのって甘い香りが漂ってきた。足を止めて回りを見渡すと、民家の軒先にある金木犀が、葉陰に小さな花をたくさん咲かせていた。

「ああ……」

薫は大きく息を吸い込んだ。船内に閉じこもってばかりだったせいか、久しぶりに嗅いだ花の匂いに心が満たされ、思わずため息が漏れる。

「素敵な香り。金木犀の香りを嗅ぐと、秋の訪れを感じますね。何だか懐かしい気持ちになります」

金木犀の花言葉は『謙虚、謙遜』という。その香りの素晴らしさに比べて、花が控えめであることが由来だ。
武市は薫と同じように花の香りを楽しんでいるように見えたが、

「うーん、私にとっては、金木犀はトイレの匂いですなあ」

と、風情の欠片もないことを口にした。

「昔、厠は汲み取り式でしたでしょう。悪臭を発するものですから、近くに香りのよい金木犀の樹を植えたものです。ですから、どうしてもトイレを連想してしまって」
「いやだわ。人がせっかく秋を感じているのに、そんな話をするなんて」

薫が非難の視線を向けると、武市は肩を竦めて、

「それだけ、しっかりした強い香りだということです。金木犀は九里先まで匂うことから、九里香とも呼ばれるのですよ」

と、黄色い小さな花を愛でるように、そっと手を伸ばした。

「雌雄異株の木なのですが、異国から伝わったのが雄株だけだったので、日本には雄樹しかありません。ですから、金木犀には実がならないのです。たとえ九里も香りを飛ばしても、はるか遠く異国までには届かない。そう思うと、甘酸っぱい香りが、どこか切なく思えませんか」
「そうだったのね……」

薫は武市と同じように、花に手を伸ばした。ふと、加賀山が道真公の和歌の話をしたことを思い出す。梅の花と金木犀、どちらの香りが優れているとは決めがたいけれど、確かに香りの強さでは金木犀に分がある。彼女にとっては、この先どこか遠くの町の街路樹で金木犀を見かけたなら、きっと今日の事を思い出すだろう。

「この香りがする度に、武市様のことを思い出します。トイレの話は余計ですが、九里香という呼び名はとても素敵ですもの」

金木犀の樹を離れ、人けのない道をあてもなく歩きながら、薫は言った。

「秋の七草という言葉があるように、秋にも花は沢山ありますね。先日訪れた伊賀では、コスモスの花が一面に咲いていました。空気が澄んでいて、ありのままの自然が残る美しい場所でしたね」

コスモスの群生を思い浮かべていると、隣を歩く武市が急に押し黙った。
不思議に思い、彼女は編み笠の陰を覗き込むようにして、彼を見上げた。

「武市様?」
「……その景色を見ることは、もう二度とないかもしれません」

薫は眉を寄せ、首を傾げた。

「それは一体、どういうことです?」

尋ねると、武市はゆっくりと歩きながら、彼女だけに聞こえるように言った。

「我々は、いよいよ倒幕に向けて動こうとしています。現将軍徳川茂茂の暗殺、そして一橋政権の擁立を実行に移すべく、晋助殿は伊賀者をこの計画に抱き込みました。それは、彼らの力を借りることが目的ではないのです」

淡々と話す武市の様子に、これから恐ろしい事を聞かされるような予感を察して、薫はぎゅっと拳を握り締めた。

「将軍が暗殺されれば、まず最大の政敵である一橋派に嫌疑がかかります。一橋を担いだ我々が、暗殺の首謀者として捕らえられるでしょう。そうならないために、我らに向けられた疑いを晴らすに足りる巨大な敵、そして一橋公が玉座を掴むに足る偉勲が必要なのです。我々が伊賀の里まで出向き伊賀衆を味方につけたのは、行く行くは、彼らに敵になってもらうためです」
「つまり……」

じわりと手のひらに汗が滲むのを感じながら、薫は声を絞り出した。

「暗殺の罪を、伊賀衆に背負わせるということ……!?」

武市は無言で頷いた。これまで藤林や百地に提示してきた、御庭番として召し抱えること、里の安全は保障すること等の条件は真っ赤な嘘だったのだ。
武市の考えていた筋書きはこうだった。伊賀衆は、服部家を御庭番として江戸に呼び寄せておきながら、里には一切目もくれない徳川将軍家に不満を募らせていた。そしてとうとう一揆を起こし、将軍や家臣達が暗殺されてしまう。そこで登場するのが一橋公である。一橋の名をもって、忍びの反乱を鎮圧し伊賀の里を攻め滅ぼす……暗殺を主謀した鬼兵隊は一切表に出ることなく、目的を遂げるのだ。

「一橋公が次期将軍となるための大義名分を作るため、我々は忍達を利用したのです」
「……忍者と言っても、普段は農民として里を耕して生活している、何の罪もない人たちよ。勿論女性や子供だっているはず。そんなこと、非情だわ……!」
「その通り、人の道に外れたことでしょう。でも我々は、それをしようとしています」

伊賀の里で見たコスモスの群生が、真っ赤な炎に包まれるのが瞼の裏に見えた気がした。ぐらりと視界が傾くような感覚がして、薫がふらりとよろけると、武市の手が咄嗟に彼女の肩を支えた。

「あなたの体調を思えば、こんな事を、打ち明けるべきではなかったかもしれません……」

彼は薫を支えながら、静かに目を伏せた。彼の言うとおり、晋助はそんな事情を容易く語ることはないだろう。万斉やまた子にしても、身重の薫には告げないような気がした。
参謀である武市がなぜそんな話をするのかと思っていると、彼は重々しい口調で続けた。

「晋助殿と出逢った時から、我々の行きつく先は決まっていました。幕府を倒し、この世界に復讐を……鬼兵隊の誰もがそんな思いで晋助殿の元に集い、ここまでついてきました。ようやっと、目の前にその時が見えてきた。我々は今、立ち止まる訳にはいかないのです」
「武市様……」
「参謀として、私は長らく晋助殿にお仕えしてきました。我々がどれだけこの時を待ち望んでいたか、そして鬼兵隊の名を背負う晋助殿が、どれ程の覚悟をもって臨んでいるか、私はずっと見ておりました。それを、あなたに分かっていただきたかった……」

今に至る道のりで、晋助がどれだけの暗躍を繰り広げ、その手を幾たび血に染めたのか。薫が知らぬことまでも、参謀の武市ならすべてを知り尽くしているのだろう。
ほんの一角しか知らない彼女には、非情だと言える立場ではないかもしれない。それでも、彼女は常に、鬼兵隊と寄り添って生きてきたという自覚があった。

「晋助様や皆さんにとって、この復讐にどれほどの重みがあるのか、私も知っているつもりでした。私も、晋助様と同じ思いを分かち合ってきましたから……」

晋助の行くところなら、地の果てまでも、宇宙(そら)の彼方までも、共に行く覚悟でいた。けれど今、目の前にどんな高い壁が立ち塞がろうとも、どれだけ無慈悲な殺戮が行われようとも、晋助は止まらない。止められない所まで、来てしまったのだ。

「でも、最後の最後を見届けることは、私にはできませんね。危険な場所には、もう行けない。……私は、この子を護らなくちゃ」
「あなたにとっては、それが一番大切なことです。どうか、新しい命を護るために、最善のことをしてください。これは参謀としてではなく、私個人として、薫さんに望むことです」

晋助は、薫にとっては生涯の最愛の人であり、これから生まれてくる子にとっては、たった一人の父親である。
そして、万斉やまた子、武市を初めとした隊の者にとっては、唯一無二の総督。彼らは晋助を選び、人生を捧げたのだ。鬼兵隊の全ての者の歩む先には、晋助の姿がある。彼らが命を懸けて復讐に挑もうとするときに、足枷になってはいられない。

その時、何処からか、再び金木犀の香りが薫と武市のもとへ届いた。強い香りを放つ金木犀。それは異国の遠い地へ届けようと、小さな花が集まってめいっぱいの香りを飛ばす。人になぞらえるなら、言葉には出さずとも、長年の間強い願いを持ち続けているかのようだ。

「私は、こうして実を結ぶことができました。だからこれからは、皆さんの無事を祈り続けます。願いが届くように、ずっとずっと……」

薫は己の下腹に手をあてがい、震える声で言った。



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