鬼と華

□胡蝶之夢 第五幕
1ページ/5ページ


鬼兵隊と伊賀衆との会談が行われた、すぐ直後のことだった。伊賀から山を越えたところに京があり、晋助は鬼兵隊の船を伊賀に残したまま、単身で京を訪れていた。長州の高杉家と遠縁にあたる、谷屋の当主に会うためである。

京都の谷屋と言えば、知る人ぞ知る老舗の呉服店だ。祇園に近い場所に古くより店を構え、今では京の文化を愛する天人相手にも取引をしているという。当主の名は谷武平、妻は佳代。連れ添って長い夫婦だが、子どもに恵まれず、二人で店を切り盛りしていた。
以前、晋助が薫を連れて京に潜伏していた時、仮住まいの屋敷の手配をしてもらってから、時折手紙のやり取りをするようになっていた。


素性を隠すために身をやつした格好をし、三度笠で顔を隠して、晋助は京の街をひっそりと歩いた。人目につかないよう谷屋の裏口の戸を叩くと、武平が戸を開けた。突然の訪問に武平は驚きの色を示したが、はるばる訪れた彼を歓迎し、わらわらと呉服屋の暖簾を片付けた。

武平と妻の佳代は、奥の居間に晋助を招き入れ茶を出した。挨拶もそこそこに、晋助がなかなか用件を切り出さなかったので、会話が途切れて気まずい沈黙が訪れた。賑やかな表通りの喧騒が急に止んだように、外の物音が聴こえなくなる。
暫くして、晋助が重い口を開いた。

「薫を、引き取ってほしい。……子どもを身籠っている」

武平と佳代は、同時に胸を突かれたような表情をして顔を見合わせた。

武平は晋助との手紙のやり取りの中で、もし子どもを授かったなら、薫を養女として引き取りたいと綴ったことがあった。それは、幕府から危険視されている晋助の側に、身重の女と子どもを置いてはおけないと思ったからだ。そして今、一橋派が台頭し世の中が揺らいでいるこの時期に、晋助が京まで密かに訊ねたのには、表立って言えぬ事情がある筈だった。武平はそう察して、頷いた。

「私共で構いませんのなら、喜んで、我が家へお迎えいたします」
「重ねての頼み事ですまないが……二つ、約束してもらいたいことがある」
「何でしょう」
「薫と俺の子には谷の苗字を名乗らせ、高杉の名は決して、出さないでくれ」
「はい。確かに、お約束します」

それは薫を養女として迎え入れ、谷家の娘としての人生を歩ませることを意味していた。
晋助は、それから、と二つ目の頼みをした。

「子どもの父親は誰なのか、何処にいるのかと聞かれれば、病で死んだと伝えてくれ」
「…………」

今度は、武平はすぐに頷くことは出来なかった。彼は俯き、数度瞼を瞬かせてから、苦渋の表情で言った。

「それは……薫さんにとっては、あまりにもつらいのでは……」
「死んだと訊けば、人はそれ以上訊ねてこないからだ。薫なら、大丈夫だ」

晋助が言ったのを最後に、武平と佳代は岩のように押し黙ってしまった。父親である晋助を死んだものとして扱うというのは、薫に対して以上に、子どもに対して酷なものであった。
しかし、過激派攘夷志士の実子とあれば、万が一晋助が捕らえられるようなことがあったら、子どもの身に危険が及びかねない。彼はそれを危惧して、薫と子の側から、己の存在そのものを消してしまおうとしていた。

遠くから、微かに人の往来の気配がする。谷屋の奥の間だけが眠ったような沈黙に包まれ、三人ともがひっそりと身を置いていた。
やがて、妻の佳代が静かに口を開いた。

「……わたくし共は、子がおりませんゆえ、長年ふたりで過ごしてまいりました。店を営み、二人で食べ二人で眠り……そんな静かな暮らしを、幸せに思うております」

晋助にとって、妻の佳代と話すのは初めてだった。低めの少し掠れた声で、彼女はゆったりと話した。物腰が柔らかく、白髪まじりの髪を上品に結わえ簪で飾る様子が、薫とどこか重なった。

「店の跡継ぎにと、子を望みはしましたが、こればかりは授かりものです。とっくの昔に諦めてはおりますが、もし、子どもがいたらどういう暮らしなのかしら、我が子を抱くというのは、どんな気持ちがするのかしらと……こんな歳になっても、時折思うものでございます」

それから佳代は、うっすらと涙を浮かべて俯いた。

「……御二人のもとを選んで、お生まれになるのに……。逢えないなんて、悲しゅうございますね……」

彼女はほろほろと溢れた涙を、着物の袂で押さえていた。晋助の境遇を憐れんで泣く妻の肩を、武平は無言で撫でていた。彼もまた、涙を堪えているように見えた。
心優しい老夫婦は、きっと祖父母代わりとなって我が子を支えるだろう。そう思えば、心強いことこの上ない。

「悲しいと憐れんでくれるのなら、その分の愛情をどうか、薫と子どもに傾けてくれ」

晋助は手をついて、武平と佳代に頼んだ。

「二人のことを頼む」


京の街で、長らくともに暮らしてきた武平と佳代のことを思えば、晋助と薫にも、彼らのように二人静かに生きる選択もあっただろう。しかし薫が身籠ったのは、子どもを望んだ彼女の願いが天に届いたのか、運命がそうさせたのか。どちらにしても、誰の為にどんな道を選ぶべきなのか、何が最善なのか、晋助自身も確信が持てなくなっていた。

谷屋を出て往来を歩くと、肩に秋の淡い陽射しを感じた。その光を追いかけるようにして、背後から賑やかな笑い声が近づいてきた。ふと振り向くと、八つか九つくらいの数人の子どもたちが、高らかな笑い声を響かせながら晋助の側を通り過ぎて行った。
鬼ごっこでもしていたのか、子ども達が去った後の風が落ち葉をはき、道端で踊っていた。

(いつか、あんなふうに……)

遠い未来、我が子もこうして、この町を駆けまわるのだろうか。
そう思うと、晋助の胸に木枯らしのような寂寥が吹き抜けた。それは孤独とも哀愁ともつかない、悲痛な感情だった。

(今更になって、俺は未練でもあるのだろうか)

殺戮の血に手を染めるような父親と、身の危険に晒されながら暗い船で暮らすよりも、この街で生きる方がずっと子どものためになる。そして、薫がかつて暮らした、彼女が愛していたこの京の町なら、我が子を温かく育むに違いない。
晋助は自分にそう言い聞かせ、京の街を足早に歩き去った。




次へ
前の章へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ