鬼と華

□胡蝶之夢 第五幕
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鬼兵隊の船が停泊した港には、朝から煙るような時雨が降っていた。空も海も、甲板も灰色に濡れて、雨粒が泣くように落ちてくる。
サアサアと耳に染み込む雨音に包まれて、船の医務室では、船医の加賀山が薫の妊娠の経過を診ていた。

「晋助さんから聞いたよ、京に行くんだそうだな。俺が診るのは、これが最後か」

加賀山がそう言うと、薫は小さく頷いた。

「京に知り合いの産科医がいる。手紙を出しておくから、彼を頼りなさい」
「はい……」

彼女の声は、暗く淀んでいた。この日彼女は口数が少なく、終始固い表情を崩さなかった。
普段と様子が明らかに違うので、加賀山は怪訝に思って彼女を覗きこんだ。

「どうしたんだよ。最後くらい、笑ってる薫ちゃんを目におさめておきたいんだがな」
「……京は、以前暮らしていたことがあります。知らない土地ではありませんが、馴染みのない場所でちゃんと子どもが産めるのか、考えると不安になってしまって。加賀山先生がいてくれたら、どれだけ心強いことか……」
「俺がいなくとも、薫ちゃんならできるさ。お産は手伝ってやれねえが、人に聞いた面白い話を教えてやろう」
「面白い話?」

加賀山は老眼鏡を外し、両手を膝の上で組み合わせ、薫と向かい合った。

「赤ん坊がどうやって産まれてくるか、知ってるかい」
「陣痛が始まって、それから産むのだと……その程度のことしか知りません」
「産まれる準備が整うとな、赤ん坊自身がサインを出すんだ。それを母体の脳が感知して、子宮を収縮させるホルモンが出る。そうすると定期的に収縮が起こって、子宮口が開いてくる。この収縮と弛緩が陣痛の正体らしいが、子宮が収縮すると、赤ん坊は体を締め付けられて息ができなくなるそうだ。お産は命懸けだって昔から言うけど、それは母親にとってじゃなく、赤ん坊にとって命がけなんだ」

加賀山の話を聞きながら、お腹の赤ん坊が苦しむ様子を想像してしまって、薫は思わずお腹に手をやった。

「陣痛の感覚はどんどん狭くなる。十分、五分、一分、苦しさに耐えながら、産まれるのに最善の時を待つ。お産が早い人や遅い人がいるのは、赤ん坊が自分にとって一番いい時機を探ってるからだ。いざ産まれてくるとなったら、赤ん坊は狭い産道を通れるように、こう、頭の骨をずらして重ね合わせて……」

彼は下向きにした手のひらを合わせるようにして説明した。

「体を回転させながら、産道をおりてくる。脳に酸素を送るために、からだの機能を最小に抑えてね。そうして最後になって、母親のいきみの力を借りて誕生するんだ」

薫にとって、初めて知ったことばかりだった。驚いた、というよりも新鮮な気持ちだった。今までは、自分の力で産むものだと思っていたが、そうではなかったのだ。

「……私が産むんじゃないんだわ。赤ちゃんが、自分で産まれてくるのね」
「そうだ。自分の意思で、自分で産まれてくる日を選んで……薫ちゃんや晋助さんに会いたくて会いたくて、必死になって生まれてくるんだ」

会いたくて会いたくて、産まれてくる。胸に突き刺さるような言葉だった。表現できない愛おしさがこみ上げて、薫は胸の辺りで両手を握り締めた。
子どもは、自ら産まれる力を持っている、強くてたくましいものだ。ならば母親も、強くなくてはならない。子どもをもつことを自ら選び、大切な命を護り育てていくのだから。


外に出ると、時雨はまだ続いていた。濡れた甲板は、真冬を思わせる鋭い寒さが足許に忍び寄ってくるようだった。
寒いから見送りはいいと加賀山は引き止めたが、薫は番傘をさして彼を見送った。

「春が来て梅の花が咲いたら、きっと思い出すよ」

傘を傾け、加賀山は優しい笑顔を見せて言った。

「何処かで梅の花を見たら、元気な赤ん坊が生まれたんだろうと……薫ちゃんのことを思うよ」

雨の向こうに消えていく加賀山の背中を、薫は見えなくなるまで見送った。
こうしてひと雨が降るごとに秋から冬へ季節が移り、その向こうには、春が待っている。お腹の子どもは、早春、梅の咲く時期に生まれてくることを選んだ。それは、晋助と薫が初めて出逢った季節だった。

梅は、春を告げるから春告草。そんな風に晋助と語ったのを思い出す。春がまたひとつ特別な季節になるのだと、薫はその頃出逢える我が子と、遠くにある春に思いを馳せた。


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