鬼と華

□終幕
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京の町はずれ、長い石段をずっと登った場所に、鄙びた古い神社がある。境内の茅葺の屋根には苔が生し、疎らに繁った樹に囲まれたその場所は、参拝する者は少なく、しんとした静寂に包まれていた。
境内の紅梅の枝には、いくつか蕾がほころびかけて、鮮やかな薄紅色を覗かせている。その日はよく晴れて、春の気配がそこはかとなく漂っていた。砂利交じりの地面から、温い空気がぽかぽかと湧き出てくようだ。

そんな日当たりのよい場所に腰を下ろして、ひとりの少年が本を開いていた。
濡羽色の髪に、早春の陽ざしが白い粒子を散らして輝いている。蘇芳の色の長着に黄赤の角帯を締め、同じ色の長羽織を着ていた。どれも上質のものである。
切れ長の瞳に儚げな影が揺れており、その眼差しの先は、手にした教本の文字を追っていた。

「志士と云うは即ち道に志すの士なり、即ち君子なり……」

彼は小声で、教本の言葉を読み上げた。小声ながらも澄んだ声は、境内に転がる石が吸い込んでいくように、美しく響いていた。

その教本には、論語や孟子などの中国の古典や、道教や陽明学など東洋の思想が記されていた。物心ついた頃から、母から日々読み聞かせられてきたもので、大半はそらで言えるようになっていた。
初めは意味がわからなかった部分も、言葉や漢字を知るにつれて、水を飲むように己の胸に染み込んでくる。人けのない静かな場所で、時折口ずさみながら読み進める、そんな時間が彼は好きだった。


暫くして、何処からか賑やかな子どもたちの声が聞こえてきた。

「梅之助がいたぞー!」

梅之助、少年の名だった。名前を呼ばれた瞬間、彼の目に、針の先のような弱い光がキラッと過った。
境内を見渡すと、神社へ至る長い階段の方から、ぞろぞろと子どもたちが姿を現した。同じ寺子屋に通う、級友達である。

「コイツ、またこんな所でボロの本読んでいやがる!」

級友のひとりが、梅之助を指さしてからかった。

「いっつも本にかじりついてる奴のことを、本の虫って言うんだってさ!」
「虫だって。じゃあ、コイツはみの虫か」

また別の少年が、ドンと梅之助の背中をどついた。その拍子に教本が転がり落ちて、級友たちはそれを拾い上げると、梅之助の目の前にひらひらとかざして見せた。どうだ、取り返してみろ、と言わんばかりに、小馬鹿にしたようなせせら笑いを浮かべている。

梅之助はじっと彼らを睨みつけ、腕を伸ばして教本を奪い返そうとした。

「返せ」
「やーだねっ」
「返せよ!」
「じゃあ、取り返してみろよ!」

何度かそんなやり取りをしながら、教本を取り戻した梅之助は、嘲笑を背中に浴びながら逃げるように神社を後にした。

両手で、しっかりと握ったその教本は、亡き父の持ち物だった。
梅之助が生まれた時には、既に父は他界していた。家に父親がいない、それは普通の家庭とは違う、そう気づいたのは、いつの頃だったか。父のことを、梅之助はよく知らなかった。残された写真は一枚もなく、父がどんな人物なのか、何をしていたのか、家族の誰も語ろうとしなかった。
ゆえに教本が父を知る唯一の手がかりとなり、父が学んでいたことをなぞりながら、どんな少年時代を生きたのか、どんな人生だったのか、思いを馳せていた。


石段を下り、町の方へと向かう途中に、梅之助の自宅がある。
自宅の小さな庭にも、梅の木があった。数年前に植えたもので、膨らみかけの小さな蕾が、枝の先についているのが見えた。
木を見上げていると、ちょうど家の中から出てくる人物がいた。梅之助は、軽く頭をさげた。

「ただいま帰りました」
「おかえりなさい、梅之助」

髪を耳の下で切りそろえ、薄化粧をしたその女性は、柔らかな笑みを浮かべた。

「これから祇園に行ってきます。留守をお願いします」

若菜色の着物に、小さな梅の花を散らした帯を締めた後ろ姿で、彼女は京の街へと向かった。
それは、母となった薫だった。



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