鬼と華

□終幕
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夕方の祇園、稽古事や挨拶回りを終えた舞妓が、自分の置屋へと帰りを急ぐ。彼女たちの髪は、梅の花をあしらったかんざしで華やかに彩られていた。春の訪れを感じさせるような、小さな蝶の飾りも揺れていた。
舞妓の髪飾りには、季節感のある花を取り入れたものが選ばれる。羽二重の絹を使い、花びら一枚一枚を丹念に造られた髪飾りは、本物の花が咲いているようにも見える。京では舞妓の花かんざしが替わるたびに、季節の移ろいを知ることができるのだ。


行き交う舞妓の姿を微笑ましく見つめながら、薫は実家の谷屋呉服店に挨拶に訪れた。

「お元気ですか。お父さん、お母さん」

薫から見て養父母にあたる谷屋の夫婦は、温かい笑顔で彼女を迎えた。

「ここ数日で、随分あったこうなりましたなあ。ようやっと梅が咲いた思ったら、すぐに桜が咲きそうどすな」

養父の武平が言った。彼はちょうど、店頭に枝垂桜の模様の着物を飾っているところだった。
着物の柄は、実際の花が咲く時期よりも先取りで楽しみ、花の盛りまでとする。そのため毎年谷屋には、祇園の何処よりも早く、桜の花が咲いていた。

「梅之助ももうじき進級しはるさかい、新しいべべをこしらえてやりまひょか」

養母の佳代が言うのを、薫は笑って断った。

「袖を出せば、昨年のものがまだ着られますよ」

そして幾つかの反物を預かると、

「では、置屋さんに行って参ります。“ほな、ごめんやす”」

両親の京ことばを真似て言うと、彼らは笑顔を返して薫を見送った。

彼女が谷屋の養女となり男児を出産してから、まもなく十年になる。子どもの名は、梅の咲く時期に産まれたことから、梅の字をとり“梅之助”と名付けた。
子育ては、思っていた以上に大変だった。独りでも育てられるという考えが甘いものだと、身をもって知らされた。だが谷屋夫妻に手助けしてもらいながら子育てに励み、子どもが己よりずっと大切な存在だということに気付いた。

数年の間は、谷家で養親と一緒に暮らしていたが、梅之助が寺子屋に通い始めた頃、いつまでも世話になっておけないと、京の町の一角に住まいを借りた。谷屋から着物の仕立ての仕事をもらい、薫自身で簪などの髪飾りを作って舞妓や芸妓相手に商売を始めた。そうして何とか暮らしていけるほどの収入は得るようになり、彼女は梅之助との二人の暮らしを支えていた。


舞妓や芸妓を抱える置屋では、夕方になると、夜の茶屋やお座敷へ向かう準備として、化粧や着付けをする“おこしらえ”が始まる。ちょうどその前の時間、稽古や挨拶回りから戻ってひと息つく頃を見計らって、薫は置屋を回った。

「花兎といって、古くからある紋様です。兎の形が可愛らしいでしょう」

彼女は芸妓たちに、谷屋で扱う着物を広げて見せ、これからの時季に合うものを勧めた。

「これは百合の花。蜻蛉に菊。椿の花簪です」

そして若い舞妓たちには、季節の花を美しく模したかんざしを髪に飾ってみせた。彼女達より年上の薫は、女将よりは若く、姉さんというよりは少し遠く、身近な親戚のような存在で、どの置屋に行っても好かれていた。

様々な色や模様の、手製の髪飾りをうっとりと眺めながら、芸妓や舞妓は座敷へ向かう前のひと時を楽しんで過ごしていた。

「薫はんの髪飾りは綺麗どすなあ。あんまり美しゅうて、見ていて哀しゅうなります」
「何かを見ながら作ってはるんですか」

自分より二回りも若い舞妓たちに訊ねられ、薫は微笑んで答えた。

「何を見ているかと言えば……心の中にある景色かしら」

そして花や蝶の模様を眺めながら、自分自身に問うように言う。

「私は皆さんより長く生きていますから、その分だけ色んな出逢いと、同じくらいの別れを経験しています。でも、数々の別れは今になっては悲しいものではなく……心の奥が温まるような、大切なものに変わっています。私の簪をきれいだと思ってくれるのなら、私の心にある思い出も、きっときれいなものになっているのでしょう」


数軒の置屋を回り家路に着く頃には、あたりに春の仄暗い夕闇が漂っていた。祇園の街にぽつぽつと明かりが灯り始め、宵を待つ空には、数艘の船の影が、船着き場の方へと飛んで行った。

空に船を見るたび、薫は決まって思い出していた。いつか、船を降りた時に目に焼き付けた、仲間たちと過ごした船の姿を。似た形の船を見つけては、もしかしたらと淡い期待が芽生え、空の彼方に消えるまで目で追う癖がついていた。
あの日仲間達と別れてから、何度か偽名で手紙が届いたことがあったけれど、ある時を境に、それはぱたりと止んでしまった。彼らが今何処にいるのか、何をしているのか、彼女に知る術はなかった。

例えば、宵の空に輝く一番星を見つけた時。この空と一続きの場所に、仲間たちがいるのだと思う。願わくば、同じ星を見ていてほしいと思う。
そして決まって、祈るのだ。どうかあの人が、元気でいてほしい。無事でいてほしい。空を見ては、別れて久しい、愛しい人に思いを馳せていた。その祈りは、まるで花びらが散って積もるように、彼女の胸の奥に折り重なっていった。




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