鬼と華

□水天一碧 第一幕
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夜の海は墨を流したように黒々として、船の篝火を映して鈍く光っていた。波の間に板切れや浮きなどが漂っていると、それらは夜闇に白く浮かび上がり、まるで人の手足が浮いているようで不気味だった。
空は分厚い雲が立ち込め、月や星の明かりの欠片も見えない。風が低い音を立てて、ひたすら波の陰影を鳴らしている。その日の海は、得たいの知れない怪物が潜んでいるような恐ろしさがあった。

暗い海に浮かぶ鬼兵隊の船は、江戸に程近い船着き場に停泊していた。真夜中だというのに、一人の隊士が下船し、桟橋を渡って町の方へと姿を消していく。彼は江戸で流行している疫病に罹患した恐れがあり、船に留まっておけないとし、馴染みの医者を訪ねるところだった。

甲板では鬼兵隊の参謀武市と、不安そうな顔をした薫とまた子が隊士を見送っていた。

「此度の疫病は、熱が七日間にも続いた症例が報告されたことをもって、幕府が“彼岸熱”と命名したそうです」

と、武市が言った。江戸市中では高熱が続く流行り病が急速に拡大しており、混乱が広がり幕府が対応に追われていた。

「かつては天然痘やコレラ、梅毒が江戸で猛威を奮いましたが、医療技術の発達により流行病は今の時代驚異ではなくなりました。しかし異国との行き来が活性化するにつれて、異国からもたらされた病原菌が新たな疫病の発端となっているのも事実です」

武市は苦渋の表情を浮かべていた。海上に響く低い声は、怪談を語るかのように薄気味悪い。

「先般江戸で流行を引き起こした疫病は幾つもあります。感染すると眉毛が濃くなりダメなおっさん化する両Uーウイルスや、突然毛髪が抜けるという髪の毛にだけ作用する奇妙なウイルスは、他の星から来訪した感染者を介して、江戸で甚大なパンデミックを引き起こしました。今回も同様の騒動となると見て間違いないでしょう。政府は早急にワクチンの開発と量産に着手しているはずです」

鬼兵隊においての罹患者は既に数名いた。感染経路は未だ解明の途中だが、麻疹のように空気感染をするのではないかと言われていた。咳などで生じた飛沫から水分が蒸発し、空気中を漂う微粒子を吸い込むことで感染するのである。同じ船に感染者が一人でもいれば、次々に他の者へ感染が拡大してしまう。

「我々も早急に対策を打たなくてはなりません。このまま感染者が増え続けては、鬼兵隊の存続に関わります」

隊士の管理も含めて、参謀の立場の武市にとっては実に悩ましい問題だった。一方、また子は腰に手を当てて溜め息をついた。

「攘夷浪士たるもの、異国の病を患うなんて情けない。気合いが足りないんッスよ気合いが」
「また子さん。そんな事を軽々しく言うものではありません。今のところ、感染を抑える有効な手段はないんですから」

武市が厳しい声でまた子を諌めた。すると彼女は何かを察した様子でしゅんと肩を落とし、隣の薫に深々と頭を下げた。

「ごめんなさい、姐さん。私ってば何て事……」
「いいのですよ」

薫は首を横に振って、また子に微笑みかけた。

「歴戦の攘夷浪士と言えど、ウイルスなどという目に見えぬ敵が相手ではどうしようもないものですね。この騒動が落ち着くには、ワクチンとやらの普及を待つしかないのかしら」

待つなどと悠長なことを言いつつも、彼女の心中は全く穏やかでなかった。鬼兵隊における第一の感染者が、総督である晋助だったのだ。



***



当初、晋助は風邪の初期症状を訴えて休んでいたが、それが普通の風邪ではないと自ら察し、忽然と船から姿を消した。行き先は誰にも知らされなかったという。勿論、薫にも。

彼が何も告げずに姿を消したことに彼女は心底動揺し、暫く放心状態だった。彼女の代わりに疑問を投げかけたのは、万斉だった。

「武市、晋助の足取りが分からないとは一体どういうことでござる。具合が悪いというのに、一人でフラフラと何処かに行くなどという身勝手を何故許したのだ。我らが大将に、死に場所を捜す猫のような真似をさせているのでござるか」

万斉は表現を選ばなかった。それを訊いた薫は瞬時に背筋が凍りついた。

「死に場所だなんて物騒な。そんなに騒ぐことではありませんよ」

一方、武市は落ち着き払っていた。咳ばらいを一つして彼は続けた。

「晋助殿がおひとりで行かれた理由なんて決まっているでしょう。感染力の強い病の可能性があり、共に行動すれば罹患するおそれがある、だから誰も伴わずに行ったのです」
「だからと言って引き留めないのはあまりにも非道徳的でござる」
「“薬より養生”という言葉をご存知ですか。病気は薬だけで治るというものではなく、安静にして養生することのほうが大事なのです。この機会にゆっくり休みたいと、そうお考えなのでしょう」
「でも、武市様……」

薫はおずおずと訊ねた。突然の出来事に頭の整理が追い付かず、誰もが悪い冗談を言っているのではないかという思いを拭えなかった。

「きっと、今も苦しい思いをしているはずです。晋助様から何か言伝はないのでしょうか」
「私へのご伝言はひとつ。誰も来なくていい、です」

それからというもの、薫は心が常に波立ち胸騒ぎが収まらなかった。平常心とはどんな状態だったかをすっかり忘れてしまうほど、感情が常に不安一色に支配されていた。
晋助が船を留守にする、例えば外の人間と会合を持つために出かけるような時、何処に行って誰と会っているかなど彼女は把握していない。すべては彼の考えあっての行動なので、逐一仔細を知ろうとも思わない。だが今回は話が違う。体調が優れないのに、仲間を頼らず独りで行動するというのは危険過ぎた。

薫は隊士から町の様子を詳しく聞き、彼岸熱とはどういうものかを徹底して調べた。高熱が数日間続き、肺炎や脳炎などの合併症を引き起こすこともあるとのことだった。特効薬はないため、対処療法により回復を待つほかなく、抵抗力のない老人や子どもは一定期間入院して経過に注意するらしい。
彼岸熱と名がつくくらいの疫病である。相当の期間、晋助が高熱で苦しんでいる様子を想像すると、胸を潰されるような憂慮を覚えた。彼にもしものことがあったらと思うと、これからよくないことが起ころうとしている嫌な予感が、常に激しく彼女を揺すぶっていた。


行動を起こすきっかけが訪れたのは、晋助が姿を消してから数日後のことだった。武市が隊士数名を伴って物資を運ばせていたので、このような時期に何処かへ出掛けるのかと問うと、彼は引き締まった表情で言った。

「他の星では、既に彼岸熱の流行に対策をとっている所もあるはずです。攘夷志士が幕府の対応に手をこまねいている訳にもいきません。万斉殿が治療の手掛かりを捜しに宇宙(そら)へ発つと言っていますので、その準備をしてきます」
「そうですか……」

総督が療養で不在のうえ、隊の中から複数の感染者が出ているとあって、武市は多くの隊士に暇を出し下船させていた。そのため船に普段の活気や賑わいはなかった。武市や万斉まで留守にするとなると、今以上に船は寥寥とした雰囲気になる。
薫が心細く思い俯くと、武市は彼女の肩にそっと手を添えた。

「少しの間留守にしますが、くれぐれも不要な外出は控えてくださいよ」
「分かっております」

返事はしたものの、彼女ははっと気付いた。武市や万斉が船を空ける機会を逃してはいけないと思った。

彼女は武市の自室にこっそり忍び込むと、文机の下に手を伸ばした。重要な書類は書棚ではなく、文机の隠し扉にしまっていると、また子に聞いたことがある。

行き先を誰にも告げなかったと言う武市の発言を素直に鵜呑みにしたものの、よくよく考えれば真実かどうか定かではない。知っている者があるとすれば、行き先は知らないなどど触れ回った参謀しかいない。

人様のものに勝手に触れるという罪悪感に良心が痛むのを感じながら、隠し扉を開けると、開封された一通の文が入っていた。差出人は、船医の加賀山という医師である。武市が船医とやり取りを交わしたことにピンときた。痕跡を残さぬようにそっと文を取り出し、書き出しから急いで目を走らせる。
そこには、晋助の身の安否を憂い、流行り病は養生が大切だと説いたあとで、こう綴られていた。

“……紀伊の国 白浜に華岡赤州という優秀な医者が居ります。江戸でともに学んだ仲で信頼のおける男です。秘密裏に彼を訪ねるように……”



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