鬼と華

□水天一碧 第一幕
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薫の決断は早かった。晋助の居場所に見当がついた今、船に留まる理由はひとつもなかった。鞄に着替えを詰め込めるだけ詰め込んで、見張りの隊士の目を盗んで船を抜け出した。忍び足で桟橋を駆け抜け、船を振り返り誰も追ってこないことを確かめると、最寄りの駅へと小走りに向かった。

流行り病への畏れからか、街中を行き交う人は疎らで、道行く人は皆揃ってマスクで口元を覆っていた。往来を天人が堂々と闊歩し、独特の賑わいのある江戸の町も、この時ばかりは殺伐として、静けさの中に町が沈んでいるようである。

急いで駅に到着したものの、彼女ははたと改札の前で立ち止まった。目的地は決まっているものの、果たしてどのように行けばよいのか。路線図や時刻表は細かい文字が複雑に羅列するばかりで、彼女は窓口にいる駅員に話しかけた。

「あの、すみません」

駅員もまたマスクをしていた。駅の構内は人が行き交う雑踏や、列車がホームに到着しては去っていく音が重なり合って喧しかった。薫の声は駅員によく届いていなかったようで、彼女は声を張ってもう一度言った。

「すみません。紀伊の国の白浜という場所に行きたいのですが、どのようにして行けばいいのでしょうか」
「紀伊だって?」

駅員は素っ頓狂な声をあげて目を丸くした。頭から足許まで彼女の身なりをずらっと見てから、彼は訊ねた。

「今から行くのかい?あんた一人で?」
「はい」

なおも驚いた様子だったが、駅員は時刻表と路線図を指差しながら行き方の説明をした。駅の名前や路線を控えようと書くものを捜している間にも、駅員は早口で喋り続け、そのうえ雑踏やアナウンス、発車のベルの音が喧しくてなかなか聞き取れない。訊き直そうと思っても、彼女の後には窓口に用のある乗客が待っており、駅員の話が終わるなり無理矢理押し出されてしまった。どうしたものかと狼狽えていると、

「ちょっとお姉さん、切符を買わなきゃだめだよ。二番線にもうすぐ次の急行が着くよ」

と、駅員の声が背中を追いかけてきた。改札を抜けるのに切符が必要だと知識としては知っていても、彼女はひとりで列車に乗った経験などなかったのである。

改札を抜けると既にホームには列車が到着しており、薫は大急ぎで階段を駆け降り、発車を告げるベルの音とともに列車に駆け込んだ。
プシューという高い音がして扉が閉まり、揺れの幅を徐々に大きくしながら列車は駅を出発する。空いているボックス席の窓側に腰掛けた途端、これからひとりで晋助を訪ねるのだということが、いよいよ現実味を帯びてきた。

急行列車は、幾つかの駅を飛ばしながら次第に江戸を遠ざかって行く。聞き覚えのある駅もあったが、聞いたこともない駅の名前が殆どだった。交通の要所と思われる大きな駅では、多くの人が降り、また多くの人が乗車したが、女性独りで乗車してくるものはいなかった。彼女は知らず知らず、自らと同じ境遇の女性を捜していたのだ。

それもそのはず、一昔前は許可書がなければ関所を通れず、気軽に旅に出れないしきたりで、とりわけ家を守ることが本分の女性が旅に出るのは困難だった。ましてや女性の一人旅など到底考えられなかった。今でこそ、開国した時勢に旅をするのを咎める風潮はないものの、薫にとっては列車に乗るのは勿論、土地勘のない場所へ一人で向かうのも初めてである。終戦後江戸に潜伏していた時も京へ下った時も、いつも晋助と共に行動していたのだ。

彼に会いたい一心で無計画に船を出てきたが、一人というのは非常に心許ない。やはり仲間に告げて誰かと共に来るべきだったと悔やまれた。だが一度乗り込んだ列車は、彼女の心細さなどお構いなしに、人々の乗り降りを繰り返しながら知らぬ土地を走り続ける。駅をひとつ過ぎる度に、塵のように不安が積もっていく。時は刻々と夕方に近付き、車窓から差し込む日光が橙色を帯び始めたが、彼女に景色を楽しむ余裕はなかった。


暫くして、前の駅で乗車したと思われる、二人組の大柄の男が同じ車両に乗り込んできた。土方仕事でもしてきたのか、着物の袖も裾も捲り、砂と泥のついた腕や脚をあらわにしている。顔が赤黒く見えるのは日焼けなのかと思いきや、まだ明るいうちから酔っ払っているようだ。二人とも手に酒瓶を持っており、大きな声で喋りながら、どこに座ろうかと列車の中を見渡している。

その時、彼らとパッと目があってしまった。薫は本能的に危険を察知して目を背けたが、遅かった。彼らはニヤニヤと下卑た笑いを浮かべながら、彼女が座るボックス席の向かいに腰を下ろした。彼らは黙って酒瓶に口をつけて酒をあおっていたが、舐めるような視線を薫に向けて、彼女の身姿をじっくりと観察していた。
知りもしない男にじろじろと観察されるなど、あまりのおぞましさに吐き気がした。耐えられずに他の席に移ろうと荷物を手に取った時だった。二人組の男は彼女を取り囲むように、汚れた膝を側に寄せた。

「ちょっと俺達と話さねェかい」

鼻にかかった粘っこい声で男が言った。息が酒臭かった。顔を背けて小さく拒絶すると、彼らはさらに距離を縮めて、馴れ馴れしく手を握ろうとした。

「やめて……」

振り払おうとしたが、脂っこくべたついた手は彼女の手首を強く掴んで押さえ込み、びくともしない。見知らぬ大柄の男二人に囲まれるのは、猛獣の檻に丸裸で放り投げられたような気持ちだった。恐ろしさのあまり身動ぎすら出来ず、彼女はか細い声で訴えた。

「離してください。何処かへ行って」

言ったつもりだったが、はっきりと言えたかどうか定かではない。本当に恐ろしい時には、身体が震えて声など出ないのだ。
酔っ払っている男達は、嫌がり困る薫を見て面白がっている節があった。手首を押さえつけたまま、彼女の細い指を玩具のように弄んでは、薄汚れた指を執拗に絡ませてくる。

「どうせ男を物色しているんだろう。嫌がる振りはやめようや」
「止めなさい」

と、後ろの席から澄んだ声がした。蜘蛛の糸にすがるような思いで振り返ると、眼鏡をかけた若い男が不快さをあらわにして立っていた。金色がかった明るい髪を短く刈り、仕立てのよい濃紺の羽織に辛子色の着物をきっちりと着ていた。

彼は薫と男達の間へ割ると、眼鏡の奥の細い目を鋭く尖らせ、男の肘のあたりをぐいと掴んだ。次の瞬間、大男は突風にでも吹かれたように通路へと投げ飛ばされた。薫ではびくともしなかった大男を、彼は片手でいとも簡単に突き飛ばしたのだ。

「てめえ……何しやがる!」

尻餅をついた男は、顔を真っ赤にして怒鳴った。眼鏡の男はパンパンと音を立てて手の埃を払うと、冷たい目をして男達を見下ろした。

「深川の伊東というものだ。この続きをしたいのであれば、次の駅で降りたまえ。一人ずつ相手をしてやる」

凛とした声が列車の中に反響した。男達は驚いて顔を見合わせ、仁王立ちの男を仰ぎ見た。

「深川……?」
「あの、北辰一刀流の……!」

酔っ払い共は目を白黒させると、自分達の荷物を抱えてそそくさと別の車両へ移っていった。
彼らの姿が見えなくなって、薫は恐怖から解放された安心感のあまり、全身からふっと力が抜けた。一人旅の不安に重ねて身の危険を味わい、どっと疲れてしまった。

伊東と名乗った男は、後ろの席から荷物を移動させ、薫の正面の席に座ろうとしていた。彼は目も合わさずに淡々と言った。

「こうしていれば、僕を連れだと思うでしょう」
「……はい」

胸を撫で下ろして礼を言おうとすると、彼は厳しい目線を薫に向けて言った。

「あなたにも非があります。若い女性が一人で列車に乗るなど、あまり褒められた行為ではありませんよ」

これには何とも答えようがなかった。開国の世とはいえ、時代の偏見は根深く残っている。彼女は姿勢を正して丁重に頭を下げた。

「伊東さまとお呼びしてもよろしいですか。薫と申します。先ほどは助けていただきありがとうございます」

それから視線を傾けて問うた。

「あの、北辰一刀流とは……?」
「ああ、僕は江戸深川中町の道場で塾頭を務めています。私闘は御法度ですが、列車で乱闘騒ぎを起こしたくなかったので、つい名前を出してしまった」
「お若いのにご立派ですね」
「いえ……」

伊東は眼鏡の縁を指先でクイと上げた。正面から見ると、彼は目鼻立ちの整った知的な顔立ちをしていた。きりりとした眉に、眼鏡の奥の涼しげな目許が印象的だった。彼は薫の荷物を見て訊ねた。

「差し支えなければ、どちらまで行かれるのですか」
「紀伊の国の、白浜というところへ。華岡赤州という方を訪ねたいのです」
「僕もそこに向かうところです。偶然ですね」

大して驚いた素振りも見せずに彼は言った。

「砂浜が美しい以外は、何もないところですよ。お一人で観光ですか」
「いいえ。私にとっては、一刻も早く辿り着きたい場所です。……逢いたい人が、そこにいるかもしれないのです」
「そうですか」

伊東はそれ以上問うことをしなかったので、会話はそこで途切れた。彼が鞄から書物を取り出し読み始めたので、薫は窓の外に目をやった。雲の切れ間から眩しい夕陽が射し込み、まるで微細な糸が空から垂れているようだった。遠くに見える山肌は橙色に染まって、陽が傾くにつれて濃紺の影が広がってゆく。落ち着いた心で眺める車窓の景色は、流れるような変化を見せて美しいものだった。

ちらりと伊東を見ると、白い頬に眼鏡が楕円形の陰を作り、男にしては長く整った睫毛が薄い影を重ねていた。金色の髪は西陽をうけて細やかに輝き、淡い光をちらつかせている。眼鏡の縁は夕陽の茜色を眩く映していた。どちらも綺麗な色だと思いながら目を閉じると、一日の疲れにふっと眠気に襲われ、薫はいつの間にか眠ってしまった。


目覚めた時には、終点を告げる車掌の声がしていた。はっと外を見るととっぷりと日が暮れており、暗いホームに滑り込んだ列車が、ギィギィと高い音をたてて停まったところだった。
くたびれた様子で人々は列車から降り、改札の向こうに吸い込まれてゆく。開いたドアから宵の口の冷たい空気が入り込み、薫は身震いをして己の肩を抱いた。見知らぬ土地の夜は静かで侘しい印象を抱かせる。列車の中には伊東と薫だけが残った。彼は訊ねた。

「宿はとっていますか」

薫は困り顔で小さく首を横に振った。てっきり、一日で目的地に辿り着くと思っていたのだ。

「江戸から白浜へは、早朝に発っても一日では着きませんよ。馴染みの旅籠があります。部屋の支度を頼んでみましょう」

駅舎を出るとそこは小さな町だった。食事処と思われる店の明かりがちらほらと灯っており、町の静けさの中にも人の気配を感じた。
疎らな街灯が照らす細道を暫く歩き、伊東は一軒の宿屋の門を叩いた。すると人の良さそうな笑顔を浮かべた女主人が姿を見せ、伊東の後ろに立つ薫を見るなり、パッと目を輝かせた。

「あら伊東様、此度は美しい奥さまをお連れで!」
「いや、僕たちは夫妻ではない」

すぐさま伊東は否定した。彼の耳の先までがたちまち真っ赤に染まるのを、薫は可笑しく思いながら彼の後ろ姿を見つめた。

「こちらの御婦人とは道すがら偶然一緒になっただけです。部屋は二室用意してもらいたい。出来れば、なるべく離れた場所に」
「まあ野暮ったいこと。恋路は縁のものというじゃありませんか。ねえ」
「やめてください」

彼は真っ赤な顔で女主人を諌めてから、宿帳に記帳をした。側から覗くと、教本のような整った文字で、伊東鴨太郎と記されてあった。流れるような筆遣いと端整な文字に、彼の教養が垣間見えた。

彼は、では、と言うと、そそくさと奥へ引っ込んでしまった。女主人は薫を見て気まずそうに言った。

「真面目な人ですねえ」

その通りだと薫は思った。女主人は二人の仲を変に邪推したが、列車で彼女の窮地を救った男が、道中一泊することにかこつけて悪さを働くなどあり得ない。正義感と礼節のある男だと確信が持てたので、彼女は伊東の後に付いてきたのだ。

「江戸の道場で塾頭を努めていらっしゃるそうですね。ご立派な方」
「ええ、そりゃあ、もう。剣術の腕前は名門北辰一刀流免許皆伝、深川の伊東さまと言えば誰しもが一目置く有名人ですよ」

それから女主人は、噂話でもするかのように声を潜めて言った。

「白浜の養生所にご兄弟がいるのだそうです。いつもはお盆かお正月に会いに行かれるんですが、この時期になんて珍しいこと」

どうやら、伊東の旅にも何やら事情がありそうだった。薫はそれ以上の詮索はせず、簡単に夕餉をを済ませたあと、ぐっすりと深い眠りについた。



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