鬼と華

□水天一碧 第二幕
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紀州藩の医師華岡赤州は、開国前の時代に全身麻酔手術に初めて成功した功績者である。彼の名声は一躍全国に広まり、多くの病人や医学を志す若者が彼のもとへ集まった。彼らを迎え入れ治療と育成を行うため、赤洲は建坪22坪もの病院兼医学校を建設した。これが「春林軒」である。広々とした敷地に、母家を中心として病棟、門下生の住居棟、食糧庫、蔵などが取り囲む。この地で学んだ若者は千を超えるという。華岡が指導を止めた今は、そこは海の側の、自然豊かな養生所だった。


江戸で流行する彼岸熱という疫病に罹患した晋助は、秘密裡に春林軒を訪れ療養していた。幸いにも、薫が訪れた時には彼は解熱し快復の目処がたち、日没前に華岡の診察を受けていた。

「熱が下がったからと言って油断するなよ。お前はまだ立派な病人だぞ」

と華岡は怖い顔をして言った。医者というのは注意や忠告をするのにどうして厳めしい声を出すのだろうと思いながら、彼女はその様子を見守った。

「高熱の期間が長ければ長いほど体力を消耗している。水分をとって安静にして、消化の良いものを少しずつとって回復を待て」
「どれくらい待てば回復するものなんだ」

晋助は訝しげに訊ねた。包帯を巻いていない彼は、少し伸びた髪が生え癖に沿って首のほうへ流れ、いつもよりぐんと若く見えた。
鬼兵隊の総督ともあろう男が大人しく診察を受けているのがどこか滑稽で、薫は笑いそうになるのを我慢していた。

「回復するというのは、熱が下がって、他の症状が治まって、起き上がる体力がついて、その辺を外出できるようになって、普段通りに動き回ることができるようになるまでだ。最低でもあと七日は療養しろ。俺に無断で出歩こうものなら、そこの女と一緒に海に沈めるからな」

海に沈めるというのは華岡お得意の脅し文句のようだった。薫は承知しましたと何度も頷き、晋助が回復するまで、彼と共に春林軒で過ごすことになった。



***



白浜まで旅を共にした伊東鴨太郎はと言えば、母屋の一室に滞在して道場の関係先に書状を書いたり、書物を開いて調べものなどをしていた。
春林軒では、晋助のほかに鴨太郎の兄が療養しており、母家の中居間が病室として使われているという。薫が挨拶とお礼をしたいと申し出ると、鴨太郎は渋い表情で彼女を伴って兄の部屋へ訪れた。

「兄さん」

お入り、と微かな声がした。鴨太郎がサッと音をたてて襖を開ける。目に飛び込んできた部屋の中の様子をみて、薫はあっと声をあげそうになった。そこは殺風景な晋助の病室とはうって変わって、立派な調度品や美術品が所狭しと敷き詰められていた。海沿いの村にどうしてこんなものがあるのだろうと疑うほど、異国から取り寄せたような豪奢な家具や、美しい絵画や彫刻の数々、書棚には洋書も含めてずらりと本が並ぶ。

それらに囲まれた寝床も、床から数段高くなっており、天蓋がついた珍しい形をしていた。そこには男がひとり、上体を起こしてひっそりと薫の様子を窺っていた。

「初めまして」

と彼は言った。一瞬鴨太郎が声を発したのではないかと疑うほど、声色が似ていることに彼女はまた驚いた。

「伊東鷹久です。鴨太郎の双子の兄です」

彼は金色の髪の色も端整な顔立ちも、鴨太郎をそのまま映したようにそっくりだった。双子とはこれほど似ているものかと感心するほどだ。
だが鷹久の顔色は、石膏の彫刻のように、人工的な作り物を思わせるほど蒼白かった。病着から覗く手首は薫よりずっと細く、肩も胸もひどく痩せ細り板のように薄っぺらい。鴨太郎とよく似た顔つきも、よく見れば頬が痩けて目が窪み、微かな光が宿っているだけだ。

その風貌に、咄嗟の挨拶が出てこなかった。薫は指をついて礼をして、喉を絞るように声を出した。

「は……初めまして。薫と申します。鴨太郎さまには、ここへ来る道中、大変親切にしていただきました」
「そうですか。とうとう鴨がお嫁さんを連れてきたのではないかと思ったのですが、違いましたか」
「やめてください、兄さん」

鷹久が冗談を言って笑わせようとしているのが分かったけれど、表情が硬く強張って、愛想笑いさえ作れなかった。
それから他愛のない雑談をしたが、鷹久は少し話しただけでも疲れてしまったようだった。鴨太郎と薫はすぐに病室をあとにした。

「兄さん、また来ます」

母屋の渡り廊下を歩きながら、ちらと隣の鴨太郎を見上げる。兄の鷹久は、流行り病にかかって療養している訳ではなさそうだ。重い病にかかっていることが一目で分かった。このような時、何と声をかけたらよいのか分からない。

母屋は潮が引いたように静かだった。時折キィと板張りの床が軋む音がするだけで、その微かな音さえもしんとした静けさを助長した。
呼吸の仕方を忘れそうな沈黙に、薫は息継ぎをするように鴨太郎に話しかけた。

「……お兄様のお部屋にあるものは、鴨太郎様が?」
「ええ。兄はこの療養所から外に出ることはありませんから。珍しいものや美しいものを見つけると、兄に贈るようにしておりました」
「そう。お兄様思いでお優しいのね」
「いえ、そんなことは……」

鴨太郎は渡り廊下でふと立ち止まり、外を見つめた。彼の視線の先には昼顔の花が咲いていた。ひなたで咲く昼顔は清らかな桃色をして、柔らかそうな花弁が風に細かに揺れている。

「路傍に咲くこんな花さえ、兄は自分では見に行けないのです。昔から病気がちで身体が弱く、床に伏してばかりでした」

鴨太郎はそう言って、哀しげに瞳を伏せた。

「両親は病弱な兄を心底憐れんで、治療の為なら手段を問いませんでした。全国津々浦々、名医の噂を聞き付けては呼び寄せて診てもらおうとしていました。兄は伊東家の跡取りですから、何とかしたかったのでしょう」

彼は抑揚のない、独り言のような口調で話していたが、その声はくっきりと薫の耳に届いた。静けさは場所の広さに比例するのだと思った。庭の昼顔の花弁に、陽射しが降り注ぐ音さえも聞こえるようだった。

「華岡先生にも何度も手紙をやって、直談判もしていました。診察の結果、心臓が悪く快復する見込みがないと分かった時は、母は手の施しようがないくらい取り乱していました。それからどんどん痩せ細って、一年で十歳も二十歳も年を取ってしまったようでした」
「では、ご両親は今は……」
「父も母も、兄の看病と心労のせいか、僕たちが二十歳になる前に病死してしまいました。その頃には僕は江戸深川道場の塾頭に命じられることが決まっていましたので、両親の死後、兄はずっと華岡先生の所にいます」

塾頭の務めも果たさねばならない一方で、兄弟と遠く離れるのはさぞ心が痛んだことだろう。鴨太郎は足許に目線を落とした。

「先日、先生から道場に文が届きました。兄の今後については、日単位で考えてほしいと記されてありました」

彼の口調は淡々としていたが、余命幾ばくもないと間接的に伝えられたという事実の残酷さが、かえって際立っていた。薫は心痛に胸に手を当て、鴨太郎を見た。

「お辛いでしょう」
「兄は永くは生きられないと分かっていましたので、覚悟はできています。突然の死は受け入れがたいと言いますが、訪れる死をただ傍観するしかないというのも虚しいものです」

ようやく鴨太郎の旅の理由が分かった。兄の死を看取る為に、多忙な塾頭の務めから離れて遠い白浜の地を訪れたのだ。
同じ敷地の中にあって、晋助は快復に向かっているというのに、片や死に近付いている者がいる。そのような場面は、春林軒では数えきれないほどあったのだろう。ここは生と死が同じ割合で共存している場所なのだ。




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