鬼と華

□水天一碧 第二幕
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春林軒での生活は自給自足だった。畑に季節の野菜が実り、鶏小屋の鳥が卵を産み、近隣の漁師達が獲れた魚介を分けてくれるのだという。食糧は豊富にあって不足はなかったが、食事の支度をするのは一苦労だった。船ではつまみを捻ったりボタンを押すだけで、湯が出たり火が付いたりしたものだが、ここにはそんな便利なものはなかった。水は井戸から汲み上げて炊事場へ運ばなくてはならないし、火も自分で起こさなくてはならなかった。幼い頃、祖母や母親がしていたのを真似ながら、薫は土間に作られた竈に薪をくべて、釜や鍋をかけて湯を沸かした。火吹竹で息を吹き込み火を強くするのもなかなかに根気がいる作業で、一つ一つの仕事に膨大な手間と時間をかけなくてはならなかった。

勿論、食糧を貯える蔵から米や野菜を運ぶのも彼女の仕事だった。籠いっぱいの食糧を両手に抱えていると、いかに日ごろ力仕事をしていないかを思い知らされ溜め息が出る。広い敷地を恨めしく思いながら、ふらふらと歩いていた時だった。春林軒の正門から、ふたりの女児がひょっこりと顔を覗かせ、じいっと薫を見つめていた。

髪の毛をおさげに結って、赤い着物と黄色の着物を来ていた。背丈も顔立ちも似ているので、歳の近い姉妹か双子のようだった。薫は荷物を足許に下ろして訊ねた。

「どうしたの?」

すると女児たちはたたたっと側に寄ってきて、目をきらきらとさせて薫に訊ねた。

「あなた、天女さま?」
「天女?」

きょとんとして訊き返すと、女児たちは頬を紅潮させて言った。

「男のひとに羽衣をかくされたんでしょう。お空に帰れなくて、困っているのね」

そんな唐突な問いかけに、もしやと思い当たる節があった。羽衣伝説という、各地に伝わる昔話である。天から鳥が海へと舞い降りて、羽衣を纏った天女に姿を変える。天女が羽衣を岩に掛けて水浴びをしている間に、その美しさに心奪われた男が、天女を天に帰すまいとして羽衣を隠してしまい、天女が天に帰れなくなるというものだ。女児たちは、薫を天女ではないかと尋ねているのだ。

どうしてそんな思い違いをしたのだろうか。海沿いで暮らす子ども達にとって、彼女の日焼けとは無縁の真っ白の肌が珍しいのかもしれない。
彼女は屈んで女児たちと目線を合わせた。頬は健康的な褐色に日焼けして、頬に散らばった小さなそばかすが可愛らしかった。

「私は天女じゃないわ。江戸という遠い町から来たの。ここに具合の悪い人がいて、良くなるのを待っているのよ」

女児たちは顔を見合わせて、何やらひそひそと話し合いを始めた。

「天女さまじゃないのかしら」
「ううん、天女さまは人間のふりをしているから、きっとうそをついているのよ」

そんな風に小声で話すのが丸聴こえだった。子どもながら一丁前に怪しむ様子が可愛らしくて、米や野菜の重さなどすっかり気にならなくなってしまった。

子どもの頃は、御伽噺と現実の境目が曖昧だった。例えば鳳凰や麒麟などの空想の動物は、どこか遠い異国にいるものだと思っていたし、鬼や幽霊といった幼心に恐怖を植え付ける存在は、見えないだけで必ずいると信じていた。見たことはないもの達の在り姿に想像を膨らませる、純真な心の豊かさがあったのだ。女児らは美しい羽衣を纏って海に舞い降りた天女の姿を、思い思い心に描いたのだろう。それが薫に似ていたのだとしたら、何と微笑ましいことか。
ここには都市部の子ども達が興ずる娯楽はないものの、無垢な心を育む自然に恵まれている。そう思うと、美しい海や山に囲まれた白浜の地がますます好きになった。



***



そんな薫と幼子のやりとりを、鷹久と鴨太郎が母屋から遠巻きに見ていた。鷹久は自分の足では外を出歩けないため、襖を開け放って外の空気を吸うのが唯一の気分転換だった。

二人は同じ時に同じように産まれ、瓜二つの顔立ちをしているが、健康な弟はすくすくと育って背丈が伸びる一方、病床の兄は昔から痩せて小柄だった。お互いを見るにも、兄が弟を見上げ、弟が兄を見下ろす。鷹久はすらりと背の高い鴨太郎を見上げて目を細めた。

「鴨、遠くから来て貰ってすまないね。先生がわざわざ君に手紙などを書くから」
「いえ」
「塾頭に命じられてから多忙の日々だろう。道場は人に任せてきたのかい」
「はい」

兄の問いかけに、鴨太郎は単調な返答を繰り返した。彼は昔から、本心ではこの兄のことを好かなかった。生まれつき病弱で頻繁に体調を崩して寝込んでばかりで、一緒に遊んだ記憶は全くない。両親は常に兄のことばかりを気にかけて、兄のせいでいつもほったらかしにされていた。両親が逝去した今はたった一人の肉親だが、兄への親愛の情はほぼ皆無だった。

江戸の深川道場に華岡の手紙が届いた時、鴨太郎は兄の訃報だと思った。ところが封を開けてみれば、余命幾ばくもないとの知らせだった。肉親に死期が近付く状況に足を運ばぬ訳にもいかず、多忙な塾頭の務めを下の者に任せて、七日間の休暇をとったのだ。

口が裂けても言えないが、兄が息を引き取った後、葬式を執り行うのが自分に与えられた役割だと思っていた。それがこんな風に死期を前にして、兄弟ふたりの時間を持つことになろうとは思いもしなかった。


鷹久は鴨太郎の心中などつゆ知らず、女児と話す薫を見つめている。春林軒に鴨太郎以外の客人が来るのが珍しいので、彼は目映いものを見るかのように目を細めていた。

「きれいな人だね。幼子が天女さまと見間違うのも納得するよ」

鷹久はそう言って、同意を求めるように鴨太郎を見た。

「母上に似た面影がある。そう思わないかい」
「さあ。そうでしょうか」

兄の言葉に、鴨太郎は鼻で笑って首を振った。

「兄さんは女性というものを知らないから、女性と見れば押し並べて母上に似て見えるのですよ」

改めて薫の姿を確かめる。華奢な体つきや儚げで美しい横顔など、似ていると言えなくもない。薫が列車で酔っ払いに絡まれていた時、ほんの一瞬、若い頃の母親の面影を感じた。救いの手を差し伸べたのもそれが一因だった。
しかし、彼女は母とは全く違う。彼女は塾頭に命じられたことをすごいと称え、知識を少しでも披露すれば、どんな些細な事でも話に耳を傾け、真剣に聞き入ってくれた。

母親は、そうではなかった。病弱な兄ばかりを気にかけ、弟の鴨太郎のことなど全く眼中になかった。学問所に通っていた子ども時代、夜中に行灯の明かりを手元に勉学に励む間も、母はずっと兄に付きっきりだった。隣の寝室で兄が咳き込む音や、母が廊下を行き交う足音によく耳を澄ませたものだ。時折、母親が兄に語り掛ける心配そうな声がしては、その声がなんと優しいことだろうと胸を締め付けられた。
羽根のように柔らかく、全てを包むような暖かい口調で、自分にも話しかけてほしい。ほんのひと時でいいのだ。勉強しているところに顔を出し、がんばっているのね、すごいわね、と褒めてほしい。兄の部屋ばかりでなく、自分の部屋へ来てはくれはしないだろうか。優しい言葉をかけて、抱き締めてはくれないだろうか。毎夜のようにそう願っていたが、願いが届くことは一度もなかった。

兄は弟のそんな葛藤を知ることなく、昔も今も病床で大切に扱われている。兄への反感は年々積み上がるばかりだった。部屋じゅうを取り囲む数々の絵画や彫刻の数々は、薫には外にも出れない兄のために飾っていると言ったが、兄に見せるために贈ったのではない。自分が生きている世界のがいかに目映く素晴らしいのか、病床にいることがいかに惨めで退屈な事かを知らしめるためだ。来る度来る度珍しい調度品を贈って、兄が見聞きしたことのないものを自分は知っているということに、内心優越感に浸っていたのだ。

休暇が終われば、兄が死のうが生きていようが、どんな容態であろうと江戸に帰るつもりでいた。兄と関わるのはこれが最後の七日間なのだ。




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