鬼と華

□水天一碧 第三幕
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疼きの燻るからだを奮い立たせて薫は炊事場に立った。
昔ながらの土造りの竈は、故郷の長州を思い出させる。開国の時代、女の本分は家を守ることなど声高に叫ばれることはなくなったが、炊事や洗濯、掃除などの家事を幾つも平行して、効率よく行うには、細々としたことに気が付く女の方が向いている。

彼女は前掛けをつけると早速朝餉の支度にとりかかった。薪をくべて火を起こすのにもすっかり慣れた。米を研いで炊き、近隣の漁師にお裾分けしてもらった漬け魚を焼く。焼けるのを待つ間に葉物と根菜を手際よく刻み、汁物をこしらえる。消化がよく栄養をつくものをと、献立を考えるのは日々の楽しみでもあった。

支度が出来たことを知らせようと寝床を覗くと、晋助はまたうたた寝をしていた。彼はもとから朝に弱いのだ。いつまでも寝ていてはいけないと揺り起こし、着替えを促した。

寝惚け眼のまま、彼は食卓についた。汁物から立ち上る湯気は出汁のよい香りがする。一口啜って、彼は一言呟いた。

「うまい」
「よかった」

薫は安堵して微笑み、自らも箸をとった。

「沢山作りました。沢山召し上がってくださいな」

新鮮な魚介や朝採れの旬の野菜を味わうのは、彼女にとっては幸福の味を噛み締めるのと同じだった。
晋助は初めは食欲がなかったが、このところ日に日に食欲が回復し膳に用意したものをきれいに平らげる時もあった。大切な人に為に、食べてくれるだろうかと思案しながら、どんなものが好きだったろうかと思いを巡らせながら食事を拵える時間が、彼女は好きだった。療養で滞在しているのではなく、ずっと昔から此所に住んでいて、この先もこうやって慎ましく暮らしていく、そんな風に錯覚するのだ。



***



春林軒の敷地は、華岡が耕している畑も含めれば相当な広さである。食糧庫と炊事場を結ぶ対角線上に母屋があり、食糧庫に食材を取りに行く時には、必ず鷹久のいる中居間の前を通り過ぎる。彼は一日の殆どを眠って過ごしているので、母屋はいつも水をうったように静かだった。大きな音をたてないように注意して通り過ぎる度に、薫は鴨太郎と瓜二つの鷹久の双眸を思い浮かべた。

最初に会った時の、彼の目が印象的で忘れられなかったのだ。何もかも吸い込んでしまいそうな深い灰色は、全てを達観したようで生気というものが感じられなかった。例えるなら、戦で死を覚悟した兵士の瞳である。病に侵されて死を待つ、そこはかとなく漂う死の臭いに、そこには近付いてはならないと身体が拒絶反応を示すようだった。

食糧庫へ向かう途中のことだった。母屋の前を通り過ぎた時、か細い声が聴こえた。

「薫さん」

鷹久の声だった。すぐさま彼の独特の色をした双眸が脳裡を過った。聴こえない振りをして立ち去ることも出来たのだが、喉を絞って、外に聞こえるような声を精一杯に振り絞ったのだと思うと、とても無視などできなかった。

「お呼びですか」

低く声をかけてから、薫は音をたてないように扉を薄く開けた。そろりと中へ入り、外の風が当たらないように、静かに扉を閉めた。身体に障るようなことがあってはならないと思うと、些細な動作でも慎重になる。

床に伏した鷹久は、ゆっくりとした動作で起き上がると、薫の顔を正面からまじまじと眺めた。

「最初にあなたを見た時、もしかしたら鴨のお嫁さんになる人かもしれないと嬉しく思ったのですが、鴨にそう言ったら、薫さんには恋人がいるのだと叱られてしまいました」

おそらく春林軒で療養する晋助のことを、鴨太郎が話したのだろう。恋人という、うら若さの漂う表現が些か照れ臭かったが、薫は小さく頷いた。すると鷹久は前のめりになって訊ねた。

「鴨のご友人のあなたなら、知っているはずです。鴨は、江戸ではどんな風に過ごしているのでしょうか。他にどんな友人がいるのでしょうか」

薫は困って首を横に振った。友人と呼ぶほど鴨太郎とは親しい間柄ではないし、何より彼と会ったのもつい数日前に過ぎない。

「白浜へ向かう列車の中で、初めて鴨太郎様とお会いしました。ですから普段のご様子は、私には……」

そう言ってから、彼女は鷹久の部屋を見回した。病床の兄の為にと、鴨太郎が方々から取り寄せた華々しい調度品がずらりと並んでいる。

「鴨太郎様は、お兄様思いでとてもお優しい方だと思います。鷹久様に見せるために、こんなに様々な贈り物をなさるんですもの」
「ええ。僕にとって、外の世界の出来事を教えてくれるのは鴨だけです。この部屋にあるものは、僕が見たことのないもの、読んだことのないものをと、鴨がくれたものです。でも僕が本当に知りたいのは、僕の弟の、鴨太郎という人そのもののことです」

鷹久の声色は鴨太郎とそっくりである。目を閉じればどちらが話しているか分からないが、鴨太郎の話し方が冷静で淡々としているのに対し、鷹久は口語体の文章を読み上げるような丁寧さがあった。

「鴨太郎様は、ご自身のことはあまりお話にならないのですか」

薫が訊ねると、鷹久は淋しそうに頷いた。

「深川道場は由緒ある立派な道場だと聞いています。彼の話には政界や財界で著名だという人物の名前が沢山並びますが、僕にはそれが価値があるものかどうかさっぱり分かりません。僕が本当に知りたいのは、鴨太郎がどんな友人と出逢い、どんな議論を交わすのか、江戸市中で若者にどんなことが流行っているのか……どんな女性とめぐり合い、恋が実ったのか、恋が破れたのか、そんな話が聞きたいのです」
「鴨太郎様は道場の塾頭をされていると伺いました。きっと、ご自分の時間をなかなか持てないくらいにお忙しいのでしょう」
「いくら多忙だと言っても、人と交流する時間くらいはあるでしょう。鴨は昔から、他人を遠ざけるような子どもでした。友達と戯れる事なく、いつも独りきりでいるのを、僕は寝床から見ていました」

鷹久は幼少の頃から体が弱く、病床に伏してばかりだったと聞いた。兄弟揃って外を駆け回ったり、笑い合ったり喧嘩をしたりという、普通の兄弟には当たり前のことが、鷹久と鴨太郎にはなかったのだろう。双子の兄弟というのに、彼らはよそよそしく他人同士のようなきらいがある。

「友人と共に過ごし議論を交わし、恋人と素晴らしい経験を積むのは悪くないことだと、そう鴨に言いたいのですが、残念ながら僕には友人も恋人もいたことがありません。僕は鴨以上に、独りきりだったから」

誰かに訴えかけるように鷹久の口調には熱がこもっていたが、表情には明らかに疲れが見えた。休んではどうかと切り出そうとしたが、彼は話すのを止めなかった。

「鴨が孤独を好むようになったのは僕のせいかもしれない。孤独が好きな人間なんて本来はいないのに」
「鷹久さま。そろそろお話は止めになさって。お体に障るわ」

薫は鷹久を制して、寝床に横たわるのを手伝った。彼は浅い呼吸を繰り返しながら、すまない、と言って微笑んだ。近くで見ると、透き通って灰色がかった瞳の色や目許の雰囲気が、鴨太郎とそっくりだった。
しかし疲労が如実に顔に現れ、血の気が引いたように顔色が悪い。不安に駆り立てられ、彼女は訊ねた。

「華岡先生を呼びましょうか」
「いえ。休めば大丈夫です」

鷹久は深い溜め息をついて目を閉じた。じっとして動かない彼を見て、言葉を交わすだけでこれほど消耗するものなのかと愕然とする。彼は美しい調度品に囲まれながら、長いこと孤独を感じて生きているのだ。



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