鬼と華

□水天一碧 第四幕
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療養中の身である晋助は、解熱してからも経過を診るために、毎朝華岡の診察を受けていた。朝食を済ませて一息ついたところで、華岡が気難しい顔をしてやってくる。春林軒で過ごして幾日も経つが、薫はこの医者の笑った顔を見たことがなかった。

華岡は彼の全身の状態を診てから、ぶっきらぼうな口調で訊ねた。

「飯は食えてるか」
「あァ」

晋助が短く答えた。

「俺に隠れて煙草なんて吸ってるんじゃねェだろうな」
「まさか」

白々として嘘をつくので、診察の様子を見守っていた薫は笑いを堪えて俯いた。彼は煙管と火種を隠し持っていて、華岡の目の届かない所で、毎日のように旨そうに煙草をふかしている。言うなよと視線で伝える彼に対して、彼女は小さく頷いて見せた。
それから彼は、胡座をかいた膝のうえに頬杖をついて華岡に訊ねた。

「なァ先生よ、俺ァ見ての通りピンピンしてるんだが、まだのんびりと寝てなきゃいけねェのか」
「七日間は休めって言っただろう。てめェで思うよりも、流行病ってのは体力が削がれるモンだ。お前さんみたいに回復が早いのが珍しいんだよ」
「そうかい」

晋助はつまらなさそうに言った。大人しくしていろと医者に言われるのが面白くないようである。実際のところ華岡の言うとおり、彼は流行病を患っていたのが嘘のように、日に日に肌艶や顔色が良くなっていた。食事もよく食べるようになって、ふらつく事も無くなった。

薫にとっては、大切な人が回復していく様子を見守るのは実に喜ばしい事だった。それ以上に、四六時中目の届く所に彼がいるのが嬉しかった。船にいる時にはおよそ考えられない事である。普段なら行先も告げずに万斉や武市と外出して、残された彼女は船で帰りを待つことが多く安否を案じていたものである。それが今では共に目覚め、三食を共にし、同じ時刻に同じ床で眠りにつく。安寧とはこういうものかと、彼女はしみじみと感じていた。



***



日々の調理に使う食糧は、華岡が耕す畑から採ってくる。大抵、診察のあとに彼は畑に行くので、収穫を手伝うのが薫の日課になっていた。

着物が土仕事の邪魔にならないように、もんぺに履き替えて外へ出る。畑の土壌は程よく水を含み肥沃で、歩く度に草履の踵を一足一足吸い込んでゆく。
収穫は単調だが楽しい作業だった。背中に照る陽射しの暑さを感じながら、実りのいい旬のものを見繕っては、土を避けて根菜を掘り出す。最初は爪と指の間に入った土や砂がなかなか取れないのが気になったが、毎日繰り返すうちに全く気にならなくなった。立派に実った作物を手のひらに乗せた時、ずっしりとした重みを感じる。その度に、恵みへの感謝を伴った、収穫の喜びをひしひしと噛み締めるのだ。

薫が潜伏する船は鉄や金属で出来ており固くて冷たいが、それとは対照に、土は暖かくて柔らかい。湿り気を帯びた土に触れていると、土は生きていると思う。そこに草木が根を張り、水や養分を吸わせ、作物を実らせるのだ。
そういった意味では、恵みの雨をもたらす空も、葉を揺らす風も生きている。白浜の地は、圧倒されそうなほどの生に溢れている。船で過ごしてばかりの彼女にとっては、身も心も洗われるような思いがした。


収穫の合間、突然華岡がぼそりと言った。

「眠っている時間が多くなった」

鷹久の事を言っているのだとわかったので、彼女は作業の手を止めて彼を見た。華岡は寡黙な男で、いつも無言で作業に没頭していた。畑仕事の最中に喋るのは珍しいことだった。

「衰弱しきっているのに、まだ生きているのが不思議なくらいだ。この世に未練でもあるのだろうか」

生死のいずれかにいるのか分からない、鷹久が薫にそう漏らしたのを思い出した。病に侵された彼は、生の溢れる白浜でただ一人、孤独のまま死を待っている。

鷹久の孤独を救う方法はないものかと、彼女は悩んでいた。他人が介入すべき問題ではないのかもしれないが、鷹久や鴨太郎が抱える胸のうちを知ってしまった今、彼らを放っておきたくはなかった。

「華岡先生、何とかならないものでしょうか」
「死にゆく人間を生き返らせようってのかい。そりゃあ、いくら腕のいい医者でも無理だ」

暗い口調で華岡は言った。薫はゆっくりと首を横に振った。

「いいえ、そうではありません。この世に兄弟と呼べるのはお互いひとりしかいないのに、彼らが孤独を抱えたまま別れゆくのが嫌なのです」

彼らは双子の兄弟だというのに、どこか他人行儀で距離を置いている。鴨太郎は母屋の別室で、書見台と睨み合いをしては書状に筆を走らせており、兄弟で過ごす時間は僅かばかりだ。

すると華岡は、ふと思い出したように言った。

「そういえば……。兄の方がいつだったか、江戸の深川道場に行ってみたいと言ってたな。ガキの頃から病弱だったそうだから、剣術なんて見たことがないんだろう」

塾頭を努める弟の立派な姿を見たかったのだろうか。自らの力で歩けない鷹久には、最早叶わぬ夢だ。

「北辰一刀流免許皆伝。弟が持つたいそうな肩書きを、時々夢を見るような目をして口ずさんでいたよ」
「夢を見るような……」

薫は行きの列車の中で、鴨太郎が北辰一刀流の系譜について熱弁を奮っていたのを思い出した。その時、彼女にぱっと閃きが浮かんだ。兄弟の心を一つに合わせるの方法は、意外なところにあるかもしれない。



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