鬼と華

□水天一碧 第四幕
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病床の鷹久に、間近で剣術を見せたい。
それも稽古や型ではなく、本物の試合を見せたい。春林軒でそれが叶うのは、晋助と鴨太郎をおいて他にいない。

薫が事情を話すと、晋助は二つ返事で承知した。だがそれが華岡の耳に入ると、病み上がりの人間に何をさせるつもりかと激高した。しかし、鷹久と鴨太郎にすれ違いがあること、孤独のまま死なせたくないという思いを伝えると、否とは言わなかった。本来剣術は三本勝負だが、一本勝負ならよしとの了解が出た。


薫は早速、書見台の前に座る鴨太郎に直談判をしに言った。

「剣術を見せろですって?兄の前で?」

彼女の申し出に鴨太郎は目を丸くした。乗り気ではないのは明らかだった。分厚い本の頁をめくりながら、彼は溜め息混じりに言った。

「型を見せればいいのですか」
「いいえ、試合をしていただきたいのです」
「試合?僕と剣を合わせる人がどこにいるというのです」
「お相手は晋助様がしてくださいます」

晋助の名前を出すと、鴨太郎はあからさまに嫌そうな顔をした。

「病み上がりの方が僕と試合をするなんて、馬鹿馬鹿しい冗談はよしてください」
「あら、冗談のつもりなんてありませんよ。列車の中で、北辰一刀流の創始者のお話をしてくださいましたね。全国各地の強敵と対戦して、どんな流派をも凌ぐ技を考案したのだと。晋助様は、長州の明倫館では右に出るものはいないくらいの腕前でしたよ」

鴨太郎の眉がピクリと動いた。力のあるものは、往々にして負けず嫌いだというのを彼女はよく分かっていた。結局、鴨太郎は挑発に乗るような形で対戦を承諾した。


剣士としての最低条件は、稽古でも試合でも剣道着や剣道具を正しく身につけることである。流石に胴着は無いにしても、華岡が物置小屋から古ぼけた竹刀を出してきた。春林軒が医学校だった時代、門下生が残していったものだという。煤と埃をきれいに洗うと、何とか試合には使える代物になった。

そして幸いなことに、春林軒の広大な敷地が剣道場の代わりとなった。母屋の中居間の扉を開け放てば、敷地を広々と臨むことができる。鷹久を風が当たらぬよう、奥まった縁側に座らせ、その側には薫が寄り添った。

「剣術の試合を見るのは初めてです」

鷹久は目を耀かせてそう言った。弟の鴨太郎はというと、兄の方には見向きもせず、足で距離を測りながら、棒切れで地面に線を引いていた。
その様子に、鷹久は怪訝そうに首を傾げていた。

「薫さん、鴨は一体何をしているんでしょうか」
「試合線と開始線を引いているのですよ。試合に必要なものです。今にわかりますよ」

審判役は華岡が努めることになった。両者、着物の袖が邪魔にならぬよう、たすき掛けをして竹刀を携え、試合線に立った。晋助と鴨太郎が相見えるのは初めてだった。暫くお互いの姿をじっくりと観察してから、視線を重ねて気を合わせる。

剣術は礼に始まり、礼に終わる。彼らは試合線上から同時に一歩を踏み出して礼をした。片手に提げていた竹刀を腰の位置に当てて帯刀し、開始線まで三歩で進む。
三歩目と同時に竹刀を抜いて剣先を交えながら、蹲踞(そんきょ)した。蹲踞とは、つま先立ちのまま踵をつけて足を開き、腰を深く落としている姿勢だ。そのままの姿勢で、主審の宣告を待った。

幼少期、藩校の剣術稽古では他を圧倒していた晋助である。一通りの作法は心得ており、無駄のない動きをしているが、対峙する鴨太郎の所作は目を見張るものがあった。礼の角度や視線の運び方、どれをとっても非の打ち所がない。ひとつひとつの姿勢に気品が溢れ、爪先までに気を配っているのが分かる。一点の曇りすらない眼差しで対戦相手を見つめる表情は、威風堂々という表現が相応しい。

人の心や感情の起伏は形に現れるものである。鴨太郎の心は今、不意に始まる試合を前にしてもなお、水を打ったように平静で落ち着いているのだろう。免許皆伝という肩書きを持つ剣士は、模範的などという形容では足らぬほど、人を魅せる気位と威厳を兼ね備えている。

やがて、審判の華岡が右手を挙げた。

「はじめ!」

合図とともに、両者立ち上がり右足を前に出した。竹刀を正面構えて対峙するふたりを、薫は固唾を呑んで見守った。彼女にとっては、試合を見るのは藩校の明倫館時代以来だった。試合線に立った時から、或いはその前から既に試合は始まっている。それは剣術の作法や礼を知らぬものにも、びりびりと伝わるような緊張感だった。現に、試合をみたことのない鷹久は、青白い手の甲に細い血管が浮かび上がるほど、かたく手を握り締めていた。

最初に動いたのは晋助だった。彼は待つことや駆け引きを好まない。真正面から勝負を挑んだ。彼が胴めがけて打ち込む一撃を、鴨太郎は流れるような動作で交わしていく。巧みな剣捌きである。
やがて、晋助が素早い動作で面を狙った。不意討ちである。鴨太郎の動きに乱れと濁りが垣間見えた。ピシッと音をたてて竹刀が跳ね、晋助が後ろに飛び退くように間合いをとった。病み上がりと思えない俊敏な身のこなしだった。

ふたり構えて向き合った時、晋助が藪から棒に訊ねた。

「真剣で戦ったことはあるか」

鴨太郎はしかめっ面で答えた。

「あなたの流派は試合中に雑談をするのですか」
「いいから、さっさと答えろ」

有無を言わせぬ口調で晋助が促すので、鴨太郎は渋々といった様子で首を横に振った。

「いいえ。真剣での戦いは経験がありません」
「やっぱりな。道理でお利口さんな太刀筋だぜ」

鴨太郎の眉がぴくりと動いた。張り詰めた空気がいっそうビリビリと厳しくなる。晋助が鴨太郎を挑発しようとしているのは明らかで、薫はひやひやしながら彼の言動を見守った。

「もっと本気でかかってこいよ。北辰一刀流免許皆伝、たいそうな肩書きだが、戦ではそんなモン何の価値もなくなるぜ」

と晋助は言った。名門道場の塾頭を努める相手に、何とも豪胆な態度である。だが、礼儀や作法の精度は敵わないにしても、剣一本で数多の戦火を潜り抜けてきた彼には、彼なりの剣の流儀がある。

「てめェの剣に懸けるのは、磨き上げた技でも、流派の威厳でも歴史ねェ、てめェの信念だ。目前の敵を倒して生き延びるために、或いは大切なものを護り抜くために、剣ってのは振るうモンだ」

彼の目には妖しい光が宿っていた。野生の獣が物陰から獲物を狙うような、鋭い光だった。

「俺にとっちゃあ、てめェの剣は温すぎる。鼾をかいて寝ていても一本取れるよ」

鴨太郎の目がカッと見開いた。ブワッと音がして気迫が溢れるようだった。彼は竹刀をギリッと握り締め、前へと踏み出す姿勢をとった。

「言葉が過ぎますよ。僕への侮辱だ」
「そう捉えるならそれでも結構。そら、信念と信念のやり取りを見せてやろうぜ」

言い終わらないうちに、鴨太郎の強烈な一撃が晋助の胴を狙った。晋助は片手で竹刀を操り容易くはね除け、フンと鼻で嗤って見せる。その仕草は更なる挑発の材料になった。鴨太郎は低い唸り声と共に真正面から突進した。凄まじい音をたてて竹刀がぶつかり合う。正面、斜め上、左横、鴨太郎の素早い攻撃を、晋助は防ぎながらも隙を狙って一撃を繰り出す。あまりの迫力に、鷹久は感嘆の息をついて言った。

「……すごい」

彼は前のめりになって、瞬きをするのも忘れて二人の戦いを目で追っていた。
先程のような、水が流れるような、しなやかな剣筋はそこにはなかった。荒れ狂う波を掻き分け、二人はがむしゃらに竹刀を振るっていた。息をつく暇もない。それは礼儀も作法も無視をした、剣士同士の激烈な闘いだった。敷地を取り囲む塀も、植えられた草木も、二人の剣士の圧倒的な存在に負けてなりを潜めている。雲の流れも、風の音でさえも止まっているようだ。

(お願い)

薫はぎゅっと両手を組んで祈った。晋助に勝ってほしいとも、鴨太郎に勝ってほしいとも思わなかった。見るものを釘付けにする華麗な剣戟が、一分一秒でも長く続いてほしい、それだけを願っていた。

両者、大きく竹刀を振りながらお互いに一歩も退かない。竹刀が激しくぶつかる音が空気を切り裂く。二つの竹刀の矛先が、ひゅおっと鼻先を掠める勢いで横切った。隣の鷹久が息を呑むのが分かった。彼の瞳の中に、剣の切っ先のような煌めきが走る。ふと薫は、彼が鴨太郎の動きを全く見ていないことに気付いた。彼は晋助の一挙一動を、穴が開くように凝視していた。

その時、ああ、そうかと彼女は納得した。鷹久は、晋助と己を重ねることで、鴨太郎と互角に、時にそれ以上に剣を振るう好敵手になっている。鷹久の中では、鴨太郎と剣を交わすの彼自身なのだ。


やがて、何かの拍子にふらりと晋助の足許がよろめいた。その隙に、肩口を鴨太郎の一撃が狙った。晋助は予測していたように瞬時に防御した。パシッ!と小気味良い音がして竹刀がぶつかる。晋助がニヤリと嗤う。そうはさせるかという笑みだった。鴨太郎もまた不敵な笑みを浮かべ、横に構えて次の一撃を繰り出そうとした。その時、カクンと晋助の膝が下へ落ちた。動きたい意志があっても身体がついていかない、そんな風にも見えた。

薫があっ、と声をあげて駆け寄ろうとした時、華岡が制止の一声を放った。

「その辺にしとけぃ。病み上がりが本気でチャンバラごっこなんざぁするモンじゃねえや」

審判役の制止が入ったので、両者渋々といった表情で開始線まで戻った。
提げ刀で歩くも、晋助の足許はふらついて覚束ない。動いている時は分からなかったが、彼は髪が湿るほど大量の汗をかいていた。

中段に構えたところで、審判の華岡が勝敗の宣告をした。

「引き分け!」

彼らは蹲踞をして、竹刀を腰の辺りに提げた。そのまま立ち上がり五歩下がり、提げ刀のまま相手と視線を合わせて礼をした。
二人は何とも言えない表情をしていた。決着が付かないことに不満を抱くような、まだ戦っていたいような、そんな顔つきだった。剣士は剣で語るとよく言うが、対戦した彼らにしか分からぬことがあったのだろう。

最後の一礼が済むや否や、薫は足袋のまま、急いで彼のもとに走り寄った。

「晋助様!」

本当はよろめいた時にすぐ駆けつけたかったが、試合という建前上、勝負が終わらぬうちに割り込むことは出来なかった。手拭いで額にかいた汗を拭いてやると、彼は大丈夫だ、と伝えるように頷いて見せた。
彼が落ち着くのを待ってから、鷹久は彼に向かって深く頭を下げた。

「晋助さん、ありがとう」

それから彼は鴨太郎の方を見て、身を乗り出して言った。

「鴨太郎、すごかったよ。沢山、沢山君は努力をしたのだな」

痩せ細った手で、鷹久は拍手を送った。試合が終わり静寂が戻った春林軒に、彼の拍手はパチパチと大きく響き渡った。

「見事だった。本当に素晴らしかったよ。君のような立派な弟がいるなんて、僕は世界中に自慢したい」

頬を紅潮させ、彼は惜しみ無い称賛の言葉を弟に贈った。拍手はなおも止まない。
鴨太郎はというと、感激した兄の様子に暫く呆気にとられていた。だが兄があまりに多くの賛辞を並べ、いつまでも拍手を止めないので、彼はとうとう、

「はい」

と言って、一気に表情を破顔した。幼さの溢れる、満面の笑みだった。
兄が笑い、弟もまた笑っていた。笑い方も同じだった。目尻に笑い皺が寄り、口をいっぱいに開けて真っ白い歯が覗く。そっくり同じ笑顔が、そこに二つあることが薫は嬉しくて堪らなかった。

少年のように目を耀かせる鷹久が、余命幾ばくもないなんて、誰もが信じられなかった。
紛れもなく、彼は生きていた。兄弟で笑みを交わすふたりは、輝かんばかりに生きていた。



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