鬼と華

□水天一碧 第五幕
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鷹久が息を引き取ったのは、静けさに包まれた早朝のことだった。朝が近づいてくる気配が春林軒を満たし、光が夜明けの青に溶ける中、彼は鴨太郎の見ている前で旅立った。

華岡が走って報せに来たので、薫は晋助とともに急いで鷹久のもとへ駆けつけた。彼が横たわる中居間は、朝の朧げな輝きに白く照らされており、畳のひっそりした感触や、古ぼけた柱の陰影が、異様な重みをもって彼女の目に写った。
彼は頬のあたりに微笑を浮かべたような、優しい表情をしていたが、血の気のない青白い顔がまるで作り物のように見えた。枕元では、鴨太郎がじっと兄の死に顔を見つめている。晋助と薫が手を合わせていると、

「笑われるかもしれませんが」

と、鴨太郎が唐突に言った。死の気配に包まれた濃密な沈黙に、彼のゆったりとした声が流れるように広がった。

「昨日の晩、ふと兄が目を覚ましまして、一緒に寝ようと言いました。最初は突然何を言い出すのだろうと思って相手にしませんでしたが、自分の部屋に戻ってから、夜中に何かあっては困ると思い直して、自分の布団を運んで、布団を並べて眠りにつきました。兄と同じ部屋で眠るのは、これが初めてでした」

子どもの頃から、病弱な鷹久と健常な鴨太郎は離れ離れで、昼も夜も関係なく別々に過ごしてきたのだろう。薫はいつしか、隣にいる晋助の手を握りしめ、彼の話に聞き入った。

「兄は安らかに眠っていました。規則正しい寝息を聞きながら、明日からは毎日こうして寝よう、きっと大丈夫だ、そう考えながら僕も眠りました。それから朝早く、夜が明けたくらいでしょうか。鴨太郎、と名前を呼ばれて目が醒めました。兄はじっと僕の顔を見ていました。何かを言いたそうに口を開いたのですが、声にならない、声を出せないような状態が暫く続きました。兄さん、と僕が呼びかけるの聞いて、兄は微かに笑って、そのまま……」

沈痛な口調で、彼は鷹久の最期の様子を語った。それから暫くの間、唇を固く結んで小さく震わせてから、声を絞り出した。

「一瞬、眠ってしまったのかと思うほどの、穏やかな旅立ちでした」

鷹久の死期が近い。それは誰もが分かっていることだった。だが、実際に訪れる死の悲しみや絶望感というのは絶大なもので、どうしてこんなに若くして逝ってしまったのだろう、さぞ悔しかったろう、無念だったろうと様々な思いが交錯する。
病に侵されながらよく生きた、なんてことはこれっぽっちも思えなかった。本当はもっと、彼の人生には為すべきことが沢山あった筈なのに。残酷なことに、最期は花びらがはらりと地に落ちるように、あっけなく訪れてしまうものだ。

いつもは平穏な春林軒が、深い哀しみの中に沈んでいた。東の空に朝日が差したのも束の間、次第に風にのって雲が広がってゆく。遠くの空には、雨を含んだ薄墨色の雲が待ち構えていた。

「今日は、久しぶりに雨が降りそうですね」

と、鴨太郎が言った。それは晋助に対してでも、薫に対してでもなく、ごく自然に、兄に何気ない言葉をかけるような言い方に思えた。二度と聴くことのない返答を待つように、彼はやるせない表情でじっと外を見つめていた。兄弟で過ごした最期の七日間が、静かに幕をおろしたのだ。




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