世界一初恋 2

□面白いものが見れました
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一之瀬絵梨佳の原稿を受け取りに行って社に戻ると、大きな封筒を抱えた人影が目についた。そわそわと落ち着かない様子で、よく見れば見知った顔。俺はその人物に声をかけた。

「吉野さん、こんな所でどうしたんですか?」
「ああ、高野さん。早めに原稿が上がったので、直接渡そうと足を運んでみたんですが」
「今羽鳥は打ち合わせ中のはずですが、お待ちになりますか?」
「そうなんですか。……いえ、連絡入れずに来てしまったんで、高野さんにお渡ししますね」

まだ締め切りまでは数日もあるというのに、こんなことはかなり珍しい。ただでさえ彼はデッド入校の常習犯、今回は羽鳥が上手く動かしたということか。
少し残念そうに俯いたあとニコリと笑って、吉野さんは俺に原稿の入った封筒を差し出した。

「羽鳥に直接渡してやって下さい、あいつ喜ぶと思います。吉野さんの一番のファンですから」
「別にいいんですよ、あとで連絡入れときますし」
「そう言うわけにはいきません。さ、あちらにどうぞ。羽鳥ならここへ呼びますから」

差し出された原稿は受け取らず、ロビーの椅子に吉野さんを座らせて、羽鳥へ電話を入れる。終わったらロビーに来てくれと、要件のみで吉野さんのことはあえて言わなかった。何となく、その方が面白いと思ったから。

「コーヒーでいいですか?」
「はい、ありがとうございます」

吉川千春こと吉野千秋は、周囲に男だということを伏せて活動をしている。事実、それを知っているのはごく一部の人間だけ。
羽鳥も何だかんだで人前には出したくないらしく、書店のサイン会なんかも実現しないままだ。要望の声が多いだけにもったいないと思うのだが、本人が頭を縦に振らないので何かと理由をつけて断っている。

「すみません……高野さんお忙がしいのに付き合わせてしまって」
「いえ、ちょうど休憩しようと思っていたところなので。それよりも吉野さん、今回の連載評判いいですよ」
「良かった、今までとは雰囲気が違うんで不安だったんです」
「違うからこそ、それが新鮮なんでしょう」

エメラルドの看板作家で、売り上げもトップクラス。担当の羽鳥とは幼馴染みだと聞いているが、彼の過保護ぶりを見れば、それだけではないような気がしていた。
もちろん本人の口から聞いたわけではないので、真意は分からない。聞いたところで、本当のことを言うとは思えないけれど。
しかし吉野さんへの入れ込み具合は、他の作家へのそれとは明らかに違い、一目瞭然だった。
基本羽鳥は私情を表に出さずポーカーフェイスな為、何を考えているのか分かりにくい。だから、あの仮面がどうやったら剥がれるのか、個人的に興味がある。

「寝てないんじゃないですか?」
「え?……ああ、そんなに酷い顔してます?一度集中しだしちゃうと、時間の感覚がなくなってしまって。いつもギリギリですみません、今回は早く終わって良かった」

そう言って笑う彼の目許にはクマが出来ていて、それでも、納得のいくものが出来たのだろう。とても充実感が漂っていた。

「いいんですよ、納得のいくまで描いて下さい。そのあとのことは我々の仕事ですから」
「本当にすみませんっ」

深々と頭を下げたあと、吉野さんはいただきますと言ってコーヒーをひとくち飲んだ。
その横顔が嬉しそうに笑うから、最初は原稿から解放されたからだと思ったが、週末を控えている今、原因は羽鳥にも関係するのではないか。
本来ならば今週末は吉野さんの原稿待ちで、休みなど有って無かったようなもの。それに合わせて終わらせたと思えば、とても自然だ。

「ゆっくり休んで下さいね」
「はい、週末はゆっくり羽を伸ばせそうです」
「羽鳥も一緒ですか?」
「え?トリ……あ、いえ……羽鳥は……まぁそうなんですけど」

吉野さんは顔に出て分かりやすい人だ。ただ、一緒なのかと尋ねただけなのに、頬を紅潮させて俺の期待を裏切らない。
その後、10分程雑談をしたところで羽鳥が姿を現した。
まさか俺が、吉野さんと一緒だとは思ってもみなかったはずだ。それでも驚いた顔を見せたのはほんの一瞬、すぐに表情を元に戻して俺達の方に向かって来た。
再び表情を崩したのは、その直後のことだった。
羽鳥の姿を見つけた吉野さんが、立ち上がった瞬間ふらついて、体勢を崩したからだ。極度の睡眠不足で疲労困憊なのだから、無理もない。寧ろよくここまで辿り着いたものだ。
咄嗟に回り込み、吉野さんの身体を抱き留めようと腕を伸ばした時。

「千秋っ!」

抱き留めるはずだった身体は、俺の方に倒れ込むことなく離れていった。駆け寄ってきた羽鳥が身体を引き寄せ、代わりに抱き留める。
指1本触れるな、と言わんばかりに鋭い眼光をこちらに向けて、こんなに感情を露にした羽鳥を初めて見た。

千秋……か。

意外とこいつも分かりやすいのかもしれない。

「ご、ごめん、トリありがとう」
「そんなことはいい、大丈夫か?本当に終わらせたんだな」
「絶対終わらせるって言っただろ」

吉野さんに向ける羽鳥の表情は穏やかなもので、他の作家も含め、社内の女どもがこのギャップにキャーキャー色めき立つのも頷ける。
最強だな……。

「高野さんすみません、少し休ませてから帰します」

あのさ、その言い方は担当作家の扱いじゃねーだろ、完全に私情が入ってる。
もう今日は充分面白いものが見れたから満足だけど、自覚がないらしい羽鳥をもう少し苛めたくなった。
一応動かなければ服で隠れているが、さっき倒れかけた時に見えてしまった鎖骨より少し下の赤い痕────。

「ちゃんと家まで送りとどけてやれ、そのまま直帰でいい」
「はい、分かりました」

俺は去り際に羽鳥の肩に腕を回して、耳許で囁いた。
"トリって独占欲強いのな。原稿上がったからって、無理させんなよ?"
この言葉の意味をどう受け取ったかは分からないが、案外ちゃんと伝わったようで。
羽鳥は瞠目したものの、すぐに「どういう意味ですか?失礼します」と、しれっと答えるもんだから可笑しくて堪らない。ほんの少し、耳が色づいていたのを俺は見逃さなかった。
ごちそうさま。
2人の距離感も分かったことだし、今日はこれくらいで許してやるか。
彼等の後ろ姿を眺めながら、週末にどうやって律を連れ込もうか……なんて考えて。
俺もその場をあとにした。



END.

→あとがき。

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