戦国BSR|刻が二人を離つまで

□刻が二人を離つまで|夏
1ページ/1ページ


郁様―――――


宵から降り始めた雨は一向に止む気配を見せず、強く打ち付ける雨音と時折轟く雷鳴とが激しさを物語る。
今宵も眠れぬ夜だった。
それは肌を湿らす湿気のせいではなく、一つの思いに捕らわれ過ぎているからのこと。これでは一向に睡魔などに訪れるはずもない。



戦場でこの命を散らしてしまえば、このような一切の迷いから解き放たれ、何事にも捕らわれずに済むというのに、運命はそれを許さず小十郎は今夜も眠りを求め続けた。


政宗から郁の輿入れの話を聞いて以来、郁の離れ座敷に赴くことはなかった。それはどれほど月日が流れたのかさえ分からなくなるほどだった。


小十郎は褥の上で幾度も身を捩っては眠りを欲する。
しかしそう易々と得られるはずもなく、小十郎は夜を侵食する闇に食いつくされてしまいそうだった。
一層のこと、食われてしまった方が楽やも知れぬ。と、自棄になりそうな己の心を律する術もなく、小十郎は闇に独り残される。


ふいに半身を起して頭を掻くと額が酷く汗ばんでいることに気づく。
そして張りついた夜着はとても心地よいものではなく、合わせの隙間に指を挟んで微かな風を求めたが、湿った空気が漂うだけで余計に気分が悪くなるだけだった。


年頃の郁の事。そう遠くない時期に縁談話が持ち上がるのは必至。元々それは覚悟の上だったはず。
けれど、いざその時が訪れると、これほどまでに心が苦しく掻き乱されて辛いとは。
小十郎はそんな不甲斐ない己に舌を打った。


「小十郎…まだ起きてる…?」
燈明皿から灯る淡い明かりが、障子に映る人影を映し小十郎の名を呼んだ。優しく柔らかい声音で。
「はい」
「入ってもいいかしら?」
「どうぞ…」
粗く手櫛で髪を整え布団から出ると、小十郎は合わせを正して夜着ながらも身なりを整えた。


障子戸が音を立てずに静かに開くと雨音が一層強く響く。そしてその声の主が姿を見せる。
自分と同じく夜着の郁がそこにいた。
雨に打ち濡らされる闇夜と揺らめく灯火の間で、仄かに浮かび上がるその姿は優艶さを際立たせ、美しさを増長させた。



「このような夜更け、しかも外は激しい雨だというのに如何されました?」
努めて平静を装い、物静かな口調で小十郎は郁に問う。

遠慮がちに部屋に足を踏み入れた郁は、小十郎の真向かいに座して暫しの沈黙を保つ。
二人の間には打ち付ける雨音だけが延々と響き渡る。そして怒る様に轟き叫ぶ雷鳴で一瞬、暗闇の二人が眩く浮き上がる。


ようやく郁が小さな口を開く。それは大層重たそうに。
「……もう来てくれないのね…」
「縁談の決まった郁様を求めるのは間違いでございましょう。そもそも郁様と私の関係はあってはならぬ事でございます」


冷たくも感じるその言葉に郁は寂しげな瞳を見せるが、小十郎は堪えて毅然とした態度を示す。
「真田に嫁がれる身の郁様が、私のような者の元へ参られてはなりません。早々にお戻りくださいませ」


「どうしてそんな事…」
深々と頭を下げ述べる小十郎の前で郁の声はか弱く震えていた。きっと今にも泣き出しそうな顔をしているに違いない。小十郎は頭を上げることが出来ないまま、さらに言葉を続けた。

「真田様へ輿入れなさるのでしたら、何の心配も御座いません。あのお方でしたら姫様を大切に、仕合せにして下さるでしょう。どうかこの小十郎のことはお忘れ下さい」


「それが…小十郎の本心なの?」
「はい左様でございます」
「……小十郎の口からそんな言葉…聞きたくなかった…」


もしかすると、自分を引き留めてくれるかもしれないという一縷の望みを託して、意を決してこのような夜更けに小十郎の元を訪ねた郁だった。

だが、予想に反した小十郎の言葉に郁の受けた衝撃は余りにも大きく、郁は部屋を飛び出してしまった。


そして小十郎は郁の後を追うこともできず、頭を垂れたまま、赤くなるほど唇を噛み、拳を握り締めていた。


以前のように郁をこの手に抱き躰を重ねれば、今頃はどれほど満たされていたことだろうか。

だが、そうしてしばえば、郁を更に苦しめてしまうことは明白だった。だからこそ、今こうやって全てを絶ってしまえば郁は泣きながらも過ぎゆく季節と共に己の存在を忘れ去り、新たな下で本当の仕合せを得ることができると小十郎は信じていた。


[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ