薄桜鬼|short

□おかぼれ
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さっきまで熱かった銚子を摘まんで、ふらふらと振ってみれば反応はなく、盃に傾けてみみても雫一滴落ちることはなかった。

零れ落ちるのは俺の口から出る心底深い溜め息だけ。

「勘定、ここに置いとくわ」

五月蠅い鬼副長の門限もあることだと思い、深酒して歩けなくなる前に俺はさっさと店を出た。


月明かりに照らされて一人さびしく夜道を歩く。

淡く浮かぶ薄月を見上げてはまた深い溜め息をついては項垂れた。

しかし参った。

まさかここまで落ち込むとはな…


郁が笑顔で働く姿を見てるだけで、癒されるというか、鋭気を養えるというか、そういう心を明るくしてくれる存在だった。

惚れた腫れたなんてものとは別次元の感情だと思っていたが、昼間若い男と親しげに喋りながら、簪なんかを貰って微笑む姿を見かけた時に、心が轟音と共に崩れ落ちるのに気付いた。

「当たって砕けろ」なんてよく言ったものだ。

自慢ではないが砕けたことなんか一度もないこの俺が、当たる前に無残にも砕け散ってしまった。
そして本気の本気で惚れてしまったということに今更気付かされるこの愚かさにほとほと呆れる。

呑んで紛らわそうにも昼間の光景が鮮烈すぎて悪酔いしかできない。


本能的に郁が働く居酒屋の通りを避けて屯所へ戻ろうとしたが、間の悪いことに俺の目の前には郁の姿があった。

しかもただ事ではなさそうな雰囲気で。


「お侍さん、ほんま堪忍しておくれやす!」
「俺は国の為、お前らの為に命を張ってるんだ。そんな俺に対して一晩の奉仕くらいいいだろって言ってるのが分らないのか!?」
人気のない夜道で酔った浪士が郁に絡んでいた。郁も何とか振り切ろうとするが、男と女の力の差は歴然としていた。


「無理強いするのはイイ男のすることじゃねぇな」

俺は郁を掴んでいた浪士の腕を捻り上げると浪士は「いてて」と悲鳴を上げ、あっさりと郁から離れた。

「何しやがんだ!この野郎!」
そして浪士は抜刀するや否や俺に斬りかかる。

生憎と俺は槍もなけりゃ脇差し一本も持っちゃいねぇ。それでもこんな浪士に負けるはずはなかった。

浪士の一振りをかわし、すかさず俺はそいつの腹に膝を入れる。たったそれだけで浪士は土埃の舞う地面を布団に寝てしまった。


「おおきに。おかげで助かりました」
「いや、いいってことよ」
あの状況で女を見捨てられるほど俺は薄情な男ではないが、相手が郁なだけに複雑な心境だった。郁が俺だと気付く前にさっさと消えてしまいたかったが、やはり顔を見られていたようで…

「あの、えっと、左之さん…?」
「あ、あぁ」
名前を呼ばれて足を止めてしまった俺自身を恨む。惨敗した俺の心に郁の存在は胸を抉るように痛かった。

「その腕…」

さっき浪士の刀をかわした時に掠ったようで腕から血が流れているのを郁は気に止めた。

「こんなのかすり傷だから気にすんな」
「そう言う訳にはいきまへん。怪我してまで助けてもろといて…家近くやし寄ってください。手当てさしてもらいます」

本当に自分でも気付かないくらいのかすり傷だったが、郁にしてみれば怪我をさせてしまったと申し訳なく思っているのだろう。半ば強引に郁の住む長屋まで連れて行かれた。


腕の怪我より今の俺の心境で、郁の住む長屋に行く方がよっぽど心が痛かったが、郁はそんなことを知る由もなく長屋へ俺を招き入れた。

郁はいそいそと蝋燭に明かりを灯すと、薄暗い部屋が浮かびあがる。見渡せば人の気配がなかった。

「沁みるやろうけど堪忍え」

郁は消毒に酒を傷口にかける。
多少の痛みはあるもののその痛みよりも…
頼りなく揺れる蝋燭の明かりがぼんやりと郁を映し出す。息を飲むほどその姿が綺麗で、ともすれば間違いを起こしてしまいそうになる俺は、なんとか自制心を持って口を開いた。


「一人暮らしなのか?」
「へぇ」
となれば、あれは旦那ではなく恋仲の男ということか…どちらにせよ俺に勝ち目はないんだが。

「それがどないかしました?」
「いや、あんたみたいに見目良し、愛想良し、器量良しの子が独り身なんて…と思ってな」
「そんなん言うて。私なんてもろてくれる人あらしまへん。左之さんこそ色男やし女の子が寄ってくるんちゃいます?」
「うん、あぁどうだろうな」
「否定も肯定もせぇへんのはずるおすえ」
「結局、好いた女がこっちを向いてくれねぇと意味がねぇと思ってさ」
「色男でも恋に悩まはるんおすなぁ」
人の気も知らねぇで。思わず口をついて出そうになった言葉を飲み込んだ。


時折きらきら揺れる簪がやけに目について仕方ない。

「俺の事より郁はいい人いねぇのか?その簪も貰ったりしてな」

自虐的な言葉に口元が歪曲したが、郁にそんな顔を見せることもできず、俺は目を逸らした。

「この簪、綺麗な簪おすやろ。せやけどこれ弟がこしらえたもんやて、そんないい男からもろたもんとちゃいます」

ふふふと笑いながら昼間の相手の男の素性を明かす郁に俺は耳を疑った。

「弟?」

「へぇ、職人やっとりますんやけど、初めて自分でこしらえた簪をうちにて…」

結いあげた髪に差された簪に触れながら郁は円らな瞳を覗かせ俺に尋ねた。

「似合おとります?」
「…あぁ、似合ってる」

ぎこちない返答に郁は花が咲いたような満面の笑みを見せた。

「左之さんにそう言うてもらえると嬉しおす」
はにかみながら郁は気がありそうな言葉で俺を紛らわせては頬を赤らめた。

すべては俺の勘違いから始まった。酒をあおっては悶々と晴れない霧の中で彷徨っていた俺に一筋の光が差したようだった。


「郁。あんたはそうやって誰にでも笑顔を振りまいて、勘違いさせて俺よりずるいじゃねぇか」
「へっ?」
俺の言ってる訳など理解できるはずもなく郁は首をかしげたが、また勘違いさせるようなことを言う郁が悪い。

「俺はてっきりあの男が郁の男かと思って、すげぇ悔しかったんだ…」
「見てはったんおすか?」
「たまたま通りかかった」
「声かけてくれはったら…」
「巡察中にそんなことできねぇよ」
「左之さん…うち…」
郁は俺顔を覗きこみ瞳を潤ませた。


「この簪見て左之さんが似合うてるて言うてくれたらえぇなぁと思ってつけとってんけど、左之さん今晩は店に来てくれへんし…」
「そんな顔してそんなこと言わないでくれ。本気にしちまうじゃねぇか」
参ったと言わんばかりに俺は額を押さえて、まるで柳のように頭を垂れた。
「うちは…本気にしてほしい」
いっそう潤んだ瞳に見つめられ、そう打ち明けられれば、俺の心は容易く陥落してしまった。


「参ったな…俺の勘違いだったのに…郁の口からこんなこと言わせて。こういう時は男がびしっと決めなきゃなんねぇってのに」
郁の身体を引き寄せその小さな背を抱きしめた。簪の飾りが揺れる頭を撫でてやれば「左之さん」と呟くように名を呼ばれる。

あまりにも浮足立った気持ちに眉を下げ、だらしなく口元を緩め、俺はどれだけしまりのない顔をしていただろうか。
そんな顔を見られまいと、俺は郁をより強く抱きしめ小さな頭を自分の胸に押しつけた。

「左之さんの胸…すごいどきどき言うてる」
「っ…」
年甲斐もなく高鳴る鼓動を押さえることもできず、郁に指摘されれば思わず赤面してしまう。

「こんな俺、ガキみてぇでかっこ悪りぃな…」
「他には見せへんところ見せてくれはる言う事は、うちのことそんだけ好いてくれとるってことですやろ…」

可愛い顔で俺を見つめては郁はその艶やかな唇で挑発的な台詞をさらりと言ってのける。多分、こいつは俺より上手だ。


「このまま泊って行ってもいいか?」
「へぇ、うちはずっとこのままがよろしおす」
一瞬、屯所に住まう鬼の顔が脳裏をよぎったが、愛しい郁の色めいた視線に敵うものなどなく、そんなものは途端に掻き消されてしまった。


見つめ合い、額を合わせて、笑い合う。
そしてもう一度視線を交わせば必然的に唇も重なり合った。


やばい、本気で惚れた。


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