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□計算よりも速く
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緻密な計算に基づき、いくら理論を高々と語ったとしても、抗いようのない突発的な衝動は存在すると思い知った。

美しい。

正しくその一言に尽きる。
それがあの人の第一印象だった。

部活中にプールを覗く人影があった。明らかに部外者であったが不審者と呼ぶにはその風貌があまりにも綺麗で疑うことなど初めからなかった。

プールから上がった遙先輩もその人を目に留めると無言のままそちらへ向かった。
知り合いなのだろうか。遙先輩が年上の美しい人と何か会話している。
普段から無口な先輩が親しげに会話する美人。
僕の推測からその美人は遙先輩の恋人という結論が導き出された。

一目惚れが自己完結した瞬間。

「あ、伊紅さんっ」
「真琴先輩もご存知なんですか?」
つまり遙先輩とは周知の間柄というわけか。

「あの人は、はるのお姉さんだよ」
真琴先輩による朗報に一度は沈んだ気持ちが浮上した。
「伊紅さーん!!」
気づいた渚くんと江さんもプールサイドを駆け出しそこへ向かう。

「遙先輩のお姉さんですか…」
「大学進学して別に住んでるから俺も久しぶりなんだけど」
「そう言われれば似てますね。遙先輩に」
「中身は全然違うけどね」
ハハと笑って言葉を濁す真琴先輩。

「まこちゃーん、れいちゃーん!今夜ははるちゃん家で夕ごはん一緒に食べようだって〜!!」


部活帰りみんなで遙先輩の家を訪ねた。
「おかえりー」
「お邪魔しまーすっ」
勝手知ったるなんとかで面識のある僕以外は居間にぞろぞろと上がり込む。

「は、初めまして。水泳部の遙先輩の後輩で竜ヶ崎怜と申しますっ、本日はお誘いいただきっ…」
食欲をそそる匂いが鼻腔をくすぐりたまらずお腹の虫が鳴き声を上げてしまった。
「そんなに固くならなくていいのに、さぁ冷めちゃうから早く上がって食べちゃって」
「…はいっ」
一目惚れした人の前でとんだ恥をかいてしまった。


「さぁどうぞ」
「いただきまーす!!」
みんなで声を揃え、並べられた料理の数々に箸を伸ばす。
そのどれもが美味しくて箸が止まらず、お腹を満たしていくのを実感した。

「えっと…怜くんだっけ?」
「はいっ、」
「水泳長いの?」
「いえ始めたばかりです」
「伊紅ちゃん、怜ちゃんねカナヅチなんだよー」
「ちょっと渚くん、僕はカナヅチではありません。バッタはできます」
「バッタだけな」
「だけって遙先輩」
「でも凄い成長してるよ怜は」
「マネージャーの私から見ても怜くんは凄いんですよー」
「そうなんだ。頑張ってね、怜くん」
「はいっ」
ニコリと僕だけに向けられた笑顔。

「あー、怜ちゃん顔真っ赤ー。さては伊紅ちゃん好きになっちゃったー??」
「ちょ、ちょっと渚くん何てこと言うんですかっ」
「慌ててるー、そうなんだー。でも伊紅ちゃん彼氏いるから無理だよ」
人このこと散々からかって恥かかせて、挙句どん底に突き落とすとは、この同級生外見のわりにあくどい。

「渚、それ禁句」
鯖を食べながら遙先輩が告げた一言はまるで厳しい忠告に聞こえた。

「渚、あんた人の傷抉るなんて、いつからそんな悪い子になったの」
伊紅さんの背後に負のオーラがめらめらと燃えているように見える。
「え、ごめん、ごめんって。知らなかったんだよー」
「だめ、許さない」
伊紅さんは渚くんの背後に回り、すかさずヘッドロックをきめた。
まったく可愛らしさの欠片らもみられない技の決まり具合に、渚くんは「ギブ、ギブ」と伊紅さんの腕を叩いて白旗降参をした。

「渚ー大丈夫ー?」
のほほんと笑いながら真琴先輩は見ているし遙先輩も何も言わないがこれが通常ということなのだろうか。
「もーホント手加減ないんだからー」
「してるわよ」
「そう言えばはるは姉弟ケンカしたらキャメルクラッチされたんだっけ?」
「それされたのお兄ちゃんですよ真琴先輩」
「俺は…ジャーマンスープレックス」
どうやら美しい伊紅さんの怒りを買うと、容赦なくプロレス技の餌食になるらしい。
これがさっき真琴先輩の言った「外見と中身が全然違う」の意味か。


「ごちそうさまでした」

みんな一様にお腹も満たされふぅと一休みモードに入る。
ハードな部活の身体の疲労もピークを迎え、そこにご馳走で満腹となれば睡魔が襲ってくるのは必然的だった。

「ねー、はるちゃん家泊まっていい?」
「ちょっと、渚くん急に失礼ですよ」
「えーだってもう眠いんだもーん」
「だからって相手の迷惑も考えずに…」
「明日休みだしウチはいいけど、そこで雑魚寝ね。あ、江ちゃんは女の子だから二階で私と一緒ね」
「やったー伊紅さんと一緒っ」
江さんの嬉々とした言葉の語尾にハートマークが飛んでいるように見えた。

「急なのにいいんですか?」
「遠慮しないで、どうせ普段ははる一人で寂しい思いしてるんだろうし」
「…別に寂しくない」
「あ、そう。素直じゃないんだからはるちゃん」
こんなふうにからかわれる遙先輩を見るのは初めてだ。

初めはただ美しく綺麗な人で憧れを抱き遠くから眺めているだけの偶像的な存在かと思ったけど、こうして笑った顔や怒った顔を見て近くで会話していると、伊紅さんはとても可愛らしい人でもっと知りたいと欲望が高まる。


台所で片付けをする伊紅さん。真琴先輩も気づいて立ち上がろうとしたけど、僕の方が先だった。
「手伝います」
「ありがとう怜くん」
「い、いえ…当然です」
心が傾いた人に笑顔を向けられるとどう対処していいのか分からず恥ずかしさのあまり俯いてしまう。
眼鏡の位置を直して、伊紅さんの隣で皿や茶碗を片付ける。

「怜くんみたいな真面目な人だったらよかったのにな」
「えっ?」
「彼氏」

背を向けた居間でテレビと談笑で賑やかな声さえも聞こえなくなってしまうほど、伊紅さんの声が胸に響く。

「…僕みたいじゃなくて……僕じゃダメですか…?」
伊紅さんの隣で、真っ赤な顔で、それでも僕の気持ちは真剣で、たった数時間でも募ってしまった想いは十数年分にも勝るもので、
計算してる余裕なんかないくらい突発的な発言をしてしまった。

「ありがと、怜くん。怜くんの気持ちは嬉しいよ…でもね、二十歳と十六歳じゃ…ね」

体良く断られたということなのだろうか。

「僕がもう少し大人になるまで…伊紅さんの隣を予約しておいてもいいですか」

このまま引き下がるには惜しすぎる。だからみっともなく粘った。

「あのさー、そんなこと言われると本気で期待しちゃうよ」
「期待しててください。伊紅さんの期待に応えられるような男に成長しますっ」
「……じゃぁ、あとで携帯の番号おしえて、ね」
「は、はいっ!」

負けを覚悟で挑んだ結果、これは喜んでいいのだろうか。
俺がもう少し大人になるまで、伊紅さんに相応しい男になるまで、猶予をもらった。


どうかこの願いが成就しますように。
理論派な僕もこればかりはどうにもならない。


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