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□ 強引に手繰り寄せた感情
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コン、コン

「江」

ガチャ

たまにしか帰ってこない自宅、江がいるものと思って部屋の扉を開ければ、そこに居たのは久しぶりに見る顔。
最後に見たのは、あぁあの時だ。
一時帰国してスイミングクラブではると競って…その後だ。

「何で居るんだ?」
「江ちゃんに勉強教えてあげに来てるんだけど」

江の部屋には江ではなく伊紅が居る。視線も口調も刺々しいくらい痛い。

小さいテーブルの上にはノート、教科書、ペンケース。
伊紅の言っている通りなのだろうが、肝心の江は?

「お兄ちゃん、何か用?」
背後からかけられた声。
「あ、江」
手には小さなトレイ。その上には二人分の紅茶とお菓子が乗せられていた。
これの用意をするために下に降りていたようで、たまたま伊紅だけ江の部屋にいたということか。

「イヤホンないか?寮に忘れてさ」
「あー、ゴメン、壊れてて今ないや」

「私の使う?こんなんだけど」
そう言って伊紅が取り出したのはピンク色でキラキラしたやつが付いてる女が好むようなデザインのイヤホン。
「あーいいや、わりぃな」
「そう」
断ったのが気に入らなかったのか、一言刺さるように声を発すると伊紅はイヤホンをカバンに仕舞った。

「ほら、お兄ちゃん、用が済んだらさっさと出ていって。伊紅先輩に勉強教えてもらうんだからっ」
しっしっと追い払われる俺。
勉強教えてもらうとか言いながら「そのピアス可愛い〜」とか嬉々とした声を上げている。
絶対勉強する気ねぇだろ。

邪魔者はバタンと扉を閉めて自分の部屋に戻った。

「あー」
勢いよく背中からベッドに倒れこんで天井を見上げる。
なんだこれ。
よく分かんねー。

はるに負けたあの時、帰りに伊紅と会った。
久しぶりに会った伊紅は「凛ちゃん」なんて声かけてくれたけど、俺それどころじゃなかった。
「うるさい、構うな」って言ったんだ。

そりゃあれだけ冷たい態度取るよな。

今更後悔してため息が出た。

「ったく、」
昔はショートカットだった髪が今は長くなっていて、ガキの頃は大して変わらなかった体つきも今じゃ女らしくなって、綺麗になってるところに腹が立つ。


『前から気になってたんですけど、真琴先輩とはどうなんですか?』
隣の部屋から江の声が聞こえてくる。
『えー、そうなんですか?じゃぁ遙先輩ってことですか?』
だから勉強しろよ。

抑揚のある声が、しかも江だけの声がやたらこっちに聞こえてくる。
はるがどうしたって言うんだよ。

『じゃぁ、じゃぁ、この前告白されたっていうのは?』
告白されたって伊紅のことか。
まさかはるが、じゃぁはると伊紅が、

って、うっせーんだよ。

隣から聞こえる声がイライラする。声が大きいこともあるが、内容が余計に俺をイラつかせる。
少しでも音を遮断しようと俺はベッドで身体を捩って目を瞑った。

こんなことならイヤホン借りといてもよかったか。


親父の死。
あいつらとの出会い。
水泳に対する想い。

留学までしておいてはるに負けた。
悔しかった。
惨めだった。

でも俺には目標がある。
だからがむしゃらに突き進んだ。

そしてまた俺の前にはるが現れた。




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