書斎
□初心者につき
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「…君がそれを強く望むのなら、私は構わないよ」
「え…?」
驚愕の色を浮かべ、ただただ呆然と見つめてくる彼の目を真っ直ぐに見て、告げる。
「君の気持ちを受け入れるよ、淳庵君」
瞬間、淳庵君の顔がパッと明るくなり、感極まった彼にいきなり腕の中へとさらわれる。
羽織に焚きしめられた香の匂いが鼻を擽り、クラリと酩酊を覚え、私はされるがままだ。
逞しい腕や胸板の感触を感じながら、鼓動はだんだんと高まってくる。
「…夢みたいだ。貴方が僕の腕の中に居るなんて」
「ウワッ!?耳元で喋るの止めて!」
敏感な耳に吐息を感じ、堪らず腕を突っ張れば、思っていたよりもあっさりと身体が離れた。
耳を押さえ、腰を抜かしている私に彼は苦笑を浮かべ、小さく肩を竦める。
「すみません、杉田さんが耳弱いの忘れてました。あぁ…零れてしまいましたね」
勢いで倒した湯呑みの中身は畳の上に撒き散らされていた。
「あ、ごめん!」
畳に染み込んだら大変だ、と懐から手拭いを取れば、彼も同じく手拭いを出し、二人して畳を拭いた。
そして二人して手拭いを握ったまま、滑稽を笑う。
「何してるんでしょうね」
「本当だね」
これが私と淳庵君が交際を始めた日。
今でも思い出すと口元がニヤけてしまうような、気恥ずかしい思い出だ。
それから私たちは共に月日を重ね、少しずつ想いを育んでいった。
雨上がりの河川敷に散歩に行ったり、茶屋で団子を食べたり。
特別なことは何一つないけど、穏やかで幸せと呼べる日々を過ごした。
まだ手すらマトモに繋げない。奥手で臆病な私達だったが、その変化に気づいた人もちゃんと居た。
「杉田君、随分浮かれた様子だが、恋でもしているのかね?」
人の機微に疎そうな前野さんにズバリ言い当てられて、私はそんなにも分かりやすい人間だったのかと顔から火が出そうな思いだった。
「君みたいな男でも恋をするんだな。いやはや、面白い」
人の悪い笑みを浮かべた彼は、最後に私の頭を乱暴に撫でて、一つ忠告をする。
「相手が誰かなんて野暮なことは聞かないが、そろそろ覚悟しておいた方がいいぞ」
「覚悟…?」
一体何の覚悟か、と聞き返す私に、だが前野さんは何も答えず、はぐらかすように笑うばかり。
このとき、無理にでも聞いておけば良かったと後悔することになるのを、私はまだ知らない。
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