書斎
□望月の夜に
1ページ/2ページ
曽良は暗闇に浮かぶ満月を見上げ、小さく声を上げた。
「今宵は望月か…」
そう言えば、まだ自分が幼かった頃。まだ曽良なんて俳号も与えられていない頃、父にねだったことがあった。
『父上、僕はあの月が欲しいです。どうすれば手に入りますか?』
今なら困惑した父の気持ちが理解出来る。
我ながら幼さ故に馬鹿なことを言ったものだと思う。
『惣五郎は月が欲しいのか?残念ながら、この私も手に入れたことはないからなぁ…』
もし今一度、同じ事を口にしたら、あの呑気を絵に描いたような師匠は何と返すだろうか。
そんなひょんな考えが浮かんできて、曽良は自宅に向かっていた足を芭蕉庵へと向けた。
夕餉を済ませた後だ、もう寝てしまっているかもしれない。
それならそれで構わない。本当に他愛もない思い付きなのだから。
ようやく辿り着いた通いなれた粗末な家の戸を何度か乱暴に叩く。
「芭蕉さん、僕です。曽良です。起きてますか?」
家から明かりは洩れておらず、寝ているのか、と諦めて帰ろうとしたとき、建て付けの悪い戸が大きく軋んだ。
僅かに開いた隙間から、童のような澄んだ黒の眼が覗く。
「曽良君、こんな時間にどうしたの?松尾に何か用事?」
ガタガタとまた大きく軋みながら、戸が開き、ヒョロリとした枯れ枝のような身体が月明かりにぼんやりと浮かび上がる。
「いえ、用と言う程でもないんですが…少し、聞きたい事がありまして…」
「聞きたい事?何々?」
何だか得意げな顔が苛立ちを誘うが、グッと堪えて今にも手刀を構えそうな右手を抑える。
ゆっくりと背後を振り仰ぎ、深淵に浮かぶ真円を指差して問う。
「芭蕉さん、僕あの月が欲しいんです。どうすれば手に入りますか?」
そこで、また相手に目を戻す。
幼い頃に口にした戯れ事を、だが師は笑わなかった。
否、笑うには笑ったが、実に朗らかで嬉しそうであり、少しも馬鹿にした色は感じられない。
「そうか、曽良君はお月様が欲しいんだ。なら、この松尾に任せなさい」
さぁおいで、と家に招かれ、困惑しつつも後へと続く。
この童子のような男は一体何をする気だろう、と楽しげな様子を眺めて見るが答えが出る筈もない。
「私も調度お月見してたんだよ。ほら、特等席でしょ?」
カラリと襖が開かれ、客間へ入ると、開け放たれた縁側から綺麗な月がそれは見事に見えた。
「それで、芭蕉さん…」
「んもぅ、急かさないでよ。じゃ、ちょっと座って待っててね」
薄っぺらい座布団を押し付けられ、待つこと数分。
芭蕉は両手に徳利と杯を二つ持って現れた。
.