書斎

□貴方の耳には届かない
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彼は小浜藩医、杉田玄白。

僕は同じく藩医、中川淳庵。

杉田さんは決して悪い人ではないが、僕にとって心労の種には違いない。

どういうことか、時間が勿体ないので簡潔に言うと、彼の耳の悪さに辟易している。

今朝だって『酷い天気ですね、杉田さん』とずぶ濡れになった着物を布で拭いながら言ったら、『え?肥後へ転勤?私、何かしたっけ?』とか言い出す始末。

何度訂正しても、マトモに聞き取れない彼に業を煮やし、最終的には筆談という手段までとった。

たかが天気の話に半刻も時間無駄にした。有り得ない。

きっと彼の耳には特大の耳垢が詰まっているか、難儀な呪いでもかかっているに違いない。

それほど、彼の聞き間違いは酷い。

どうせ聞き間違えるなら、何処ぞのアホ摂政のように饅頭をウォンチューとか、そういう美味しいモノにして欲しい。

そしたら、こんな二進も三進もいかない堂々巡りから解放は無理にしても、僕の心に潤いを能えてくれるというものだ。

鈍感な上に難聴なんて、どんな難攻不落の山城だ。落とすなんて夢のまた夢ではないか。

はい、恥ずかしながら、この淳庵…彼に懸想しておりますとも。

別に僕は男色家とかではなく、ただ好きになった人がたまたま同性だっただけの話で。

頭は良い筈なのに、全体的に抜けてて危なかっしいこの人に心の臓を痛め付けられる日々を過ごしている訳だ。

我ながら憐れで涙が出そうになるが、グッと堪えて医学書をめくる彼の姿を横目に眺める。

ガタガタと研究所にしている粗末な小屋が揺れる。外は酷い雨風だ。

吹き込む隙間風に蝋燭の火が頼りなく揺れるのも構わず、杉田さんは熱心に研究に没頭している。

『蘭法が外法なんて言われないように、私達が頑張らなくてはね』

蘭学の研究が進めば、きっと沢山の人を助けることが出来るよ。

そう目を輝かせて言ったこの人に迷いはなかった。

多分、恋に落ちたのもその時だ。

この綺麗で優しい人の側に居たい、そう思った。

守りたい、なんておこがましいことは言わないけど、支えになるくらいなら許されるだろう。

僕は僕に出来る精一杯を貫くしかないのだ。

「杉田さん、少し休みませんか?」

蝋燭は大分短くなり、時間の経過を如実に物語っていた。

「あ、うん。そうしようかな…ちょっと疲れたし」

マトモに聞こえたらしく、素直に頷いた彼は固まった肩を解すように首をグルグルと回した。

バキバキと凄い音がなって、少しビックリする。

「だ、大丈夫ですか?」

「平気だよ。肩凝り性みたいでね、慣れちゃった」

あっけらかんと言いながら、彼は拳でトントンと代わる代わるに左右の肩を叩いた。

何だか辛そうだ。





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