short story 2

□追憶
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遅めに設定された卒業式までの間延びした日にちを、オープンキャンパスで購入した本に読みふける事で私はやり過ごしていた。
一般的な試験(いわゆる正攻法ってやつ)でその大学に合格した私には運転免許を取るほどの時間は無く、かといってのんべんだらりと日々を無駄にするのも耐え難く。
結局私には勉強しかないのだと突きつけられたような気がしたこの数日間が、後の私にサークルでも何でもいいから課外活動をすべきだという警告を出す。
あの時適当に選んだ英文学の本が分厚いにも関わらず鞄に入っているのは、その大学での課外活動を調べに行くなどと理由を付けて外で時間を潰そうと思ったからだ。
理由として挙げた考えの全てが嘘というわけではないけれど、なんとなく心苦しい。
それでも、明日の卒業式にやたらと気合いを入れている母を見るよりは幾分マシだと思えるからこそここに居るのだが。


「いいって、来なくても。」
「なあにー、冷たいわね。せっかくの卒業式に。」
「だってもう大学生なんだよ?」
「卒業するのは高校でしょ。」


義務教育の間はお子様なのよ、としたり顔の母につっこみたい。高校は義務教育じゃないでしょと。
言おうが言うまいが母がそれを無視して自分の世界から戻ってこないのは分かっていたから結局実行はしなかったけど。


「お父さんも楽しみにしてるんだから。」
「えー…。」


透明のグラスにいちごミルクを注ぎながら頬がひきつるのが分かった。
薔薇柄の絨毯の上でファッションショーをしてる母の後ろをさっさと通って2階の自室へ駆け上がる。
機嫌が良い時の方が怖い母だ。放っておいた方が余計な詮索をされずに済む。
例えば、明日の卒業生代表答辞のこととか。







「…卒業生代表、篠宮優。」


春休みのせいか子供が多いその公園のベンチで、よれた紙を風から守るようにしっかり掴みながら声で字をなぞった。
別に誰が読んでも同じなその文章は、誰かの名誉を守るために私に託されたと言っても過言ではない。
平凡な文章でも格のある人が読めばそうそれなりに着飾ったように見える。
自分がその格を持っているというのはさすがに自信過剰だし思わないけど、手にするだけの努力をしてきたことは否定しない。
自分を卑下することは自分の価値を下げる。
価値が下がれば、開ける人生の幅が狭くなる。
だから私は言わない。「私なんか」という言葉だけは絶対に。
その代わり努力は惜しまない。
自分を誇れる自分でいるために。


「4月からは1人か。」


答辞の練習もそこそこに英文学を開きかけて急に思い出した。
わざわざ今日行かなくてもと引きとめられそうになったくらいには遠い、帝都大学。(本当は今日行っていないけど)
過保護な両親に対し、私が1人で暮らすための説得すら私は学力でしか示せなかった。
この国の最高学府に入るための理由は、研究がしたいわけでもなく良い会社に就職するためでもなく。
ただそこにある漠然とした希望を追ってみたくなったから。
自分の道は自分で切り開く。それがどこまで私に可能なのか。
正直に言うなら、あの時言われた言葉を未だ消化しきれずにいるのが辛くなったから。
成果を出すには1人にならなければ意味がない。
全ての援助を必要としないわけじゃないけど、少しでも。
意志が宿ったあの目に、少しでも近づきたくて。


「ゆうーちゃん。」


胸がひとつ、大きく鳴った。
なんだ、子供か。
活発そうな女の子がそう呼ばれて走っていく。
「ゆう」なんて名前、どこにでもあるから。
なんとなく哀れみを感じつつはしゃいでるのを眺める。
彼女もきっと、幾度か違う「ゆう」に振り向いた経験があるだろう。
仲良く「逆走」を楽しんでいるのは、コーティングされた水色が最近だんだんと剥がれ落ちてきた滑り台。
雨に打たれ、風にさらされ、子供たちが手足をかけ。
そうして今の風貌となったそれの約8年前の姿を、私は鮮明に覚えている。
一番冷える時期の、一番冷え込む時間。
やせ我慢して履いていった赤いスカートは見事にクラスで浮いていて。
朝から雨だったのに新しいスニーカーで。
少しでも可愛く見られたかったのだろう。終業時間には上がっていた雨に、きっと自分の味方をしてくれたんだと思っちゃうような乙女全開の平凡な女の子だった。
今思えば完全に非合理的な、頑固さだけが表れたような服装だったけど。
「彼」もきっと、そんなところが馬鹿だと思って私に声をかけたのかもしれない。
「お馬鹿ちゃん。」そう呼ばれても不思議とそこに怒ることはなかった。
想い人にプレゼントを渡せなかったことに相当こたえていたのもあったけど、それ以上に、あとに続いた言葉が衝撃的すぎて。


「いいかお馬鹿ちゃん。もらってくれるのを待ってても一生無理だ。
思ってることってのは言わなきゃ伝わんない。めんどくさいけどそうなの。
けど逆に。自分次第で人生どうにでも出来るってことなんだよ。」


周りのどんな大人もそんなことは教えてくれなかった。
家でも学校でも、示されたことに従い、同学年の子たちの平均的な成果より少し上を見せていればそれだけで誉められる。
叱られた事もたしなめられた事も記憶に無いくらいだった。
当然、「馬鹿」だなんて、ただの一度も。
思ってることなんて別に言わなくても向こうから示してくれた。
これをやって、次はそれをやって、そうそう、優ちゃんは何でも知ってるわね、何でも出来るわね、何にも心配いらないわね。
この世で自分は一番賢いとさえ思えた、だから。
「知ってる?バレンタインは本当は悲しい日なんだって。」
初めて「恥」というものを知った。
今からすれば恥なんて程のものじゃないけれど。
初めてだったから。自分に出来ないことがあると知ったのは。
全てを知っていると思ってたのに。
何でも出来る子だと信じていたのに。
もし大人たちにこれが知れたら。
そんな折に出会った彼を、激しい動揺の中でとにかく黙らせなくてはと思った。
彼の背丈に合わせるように斜め上に突き出したチョコレートを断られた時点で、自分の弱みが握られたのだと絶望さえ感じた。
クラスの友達の間で流行っていた恋占いに便乗したくて始めた恋だったけど、どの本を読んでも答えは書いていなかった。
大嫌いな国語と一緒か。答えがなくちゃ意味がない。正解を答えられない私なんてすぐに…。
「そういうとこ見せちゃえば。」
そういうとこってどういうとこだ、と睨みつけた。
それで彼は笑って言ったのだ。
私に初めて「馬鹿」だと。


人生は、誰かの示す場所にいかに上手に早くたどり着いていくかの繰り返しだと、それを幼い自分がもう分かっているのだと内心鼻が高かった。
同級生の誰も知らない大人の世界を私はもう知っているのだと。
しかし彼は言った。もらってくれるのを待ってても一生無理だと。
思ってることは言わなきゃ伝わらないのだと。
ずっと今まで、たどり着いただけで別に私が何を言おうと言うまいと、それは勝手に汲み上げられて私は頭を撫でられてきた。
それじゃダメなのか――
現に私が好きと認めたあの男の子は私から何も汲み取ってはくれなかった。
なぜ。なぜなぜなぜ。
彼の冷たそうで、でも意志の強い目をひたすら見続けた。
近所にそういう風体のお兄さんはたくさんいたけど、そんな目をする人は1人もいなかった。
私がここに居てもまるで無視するような、他の何かを一筋に追い求めているような、でもどこか投げやりな、目。
本当の世界をこの人は知っているのかもしれない。
漠然と思った。
しばらくして、よそのお兄さんが「これあげる」と言う時とは全然違う、気だるそうな雰囲気を隠そうともしない彼が私に箱を渡した。
今日はバレンタインだからきっとチョコレートなんだろうと、それだけは頭の回転の早さが役に立った。
弱みをばらさない代わりに受け取れということか。よく分からないけどもう一度だけその姿を目に焼き付けて走り出した。
詰めた教科書が上下に揺れて革のランドセルの中で音を立てる。
靴を揃えもせず上がった玄関に母が来るころにはもう私は2階の自室で本棚から百科事典を引っこ抜いていた。
この世には、これを全部知っても網羅出来ない何かがある。
息が上がったまま、乱雑にめくってその勉強の形跡を追った。
私の自信の全て、だったもの。
それを放って姿見にかじりついて自分の目を見ると、瞳孔が頻繁に拡大縮小していた。
違う。あの人の目は、全然そんなことなかった。
ただ一点を見ていた。
黒い瞳が揺れることは少しもなかった。
私は―――。







「ゆうーちゃん。」


その名前はするりと脳に入り込んできた。
さっきのように心臓が跳ねることはなく、襲ってきた眠気を払うように体の関節を動かしながら立ちあがる。
見回せば、ゆうちゃんを含んだ2人はもうすべり台には飽きたのか、いつの間にか山の形をした遊具に移動していた。
夕刻を表す色が濃くなったので幼児を遊ばせていたお母さんグループはいなくなり、必然と人気の遊具の倍率も低くなった。
大人の目が無いことを確かめて懐かしい水色の段を上っていく。
もう足を乗せられすぎて銀色になっていたけど思い出のそれは鮮やかな水色で、冷えた水滴もまだはっきりと思い出せた。

あの日の彼の表情を忘れたことは一度も無いのに。
言われた言葉は一字一句覚えているのに。
私の進んできた道は、間違っているのだろうか。
伝えたいことは伝えてきた。
口に出して自分をうまく、綺麗にもみせてきた。
やってみるとそれは意外と簡単で、示された道に従っているだけよりも自分の思うままに進めることが出来た。
「自分次第で人生どうにでも出来るってこと」
確かにその通りだった。
自分次第でもっと大人から誉められた。
学級委員長、委員会、生徒会…。
「もらってくれるのを待つ」のはやめて、こうありたいと思う自分になるために――彼のようになるために、あの言葉のままに生きてきた。
でも。
果たして、彼のような目になれただろうか。
彼の言うままにやってきたけど、私は今全然違う場所にいるような気がした。
当時想像した彼の年齢に近くなったとは思う。
それでも今の私には、あんな目は出来ない。
彼は何を追っていたのだろう。
私には、そこが足りないのかもしれない。


「帝都大学を受けようと思うんだけど。」


それは別に研究がしたいわけでもなく良い会社に就職するためでもなく。


私には何が追えるだろう。
彼のような目になれるだろうか。



しばらく来ることが出来なくなった思い出の公園で、私は風にさらわれていく桜を眺めた。



END


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