Reservoir vomit
□コート上の赤詐欺師
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ばか、と耳元で声がする。
それがどこから発せられたものかは、定かではない。近いようで、遠くからの声。
パン、と耳の奥で乾いた音がする。
どちらかの頬がじんわり、熱を持ってまるで照れたように赤くなる。遠いようで、近くからの音。
やがて自分がぶたれたのだと気が付いた。痛覚を鈍く刺激するその衝撃で、少しずつ意識が覚醒する。
だが当の俺には、知り合う人間の誰にもぶたれるような事をした覚えは、ない。
では何故、どこの誰に、俺はぶたれたのだろう。
「ばか…馬鹿馬鹿、仁王君の…馬鹿」
一通り罵ると、傍らのその女子は俺の首の辺りに顔を埋めた。
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俺はただ茫然と、兀然としてその光景を見ているだけだった。目だけを動かして、状況を掴む。
どうやら俺は、知らず知らずの内に何か善からぬ事をやらかしたらしい。
――頭の回転がやけに遅い。
考えようとすればするほど思考が空回って、回路が定まらない。
今日の俺は笑えるほど、きっとおかしい。
「仁王君が悪いんだよ。仁王君が優しいふりするから…私、間違ってた」
優しいふりとは、これいかに。俺がいつ、優しいふりをしただろうか。
何もかも解りきったような口で目の前の女子は続ける。
「仁王君は…――」
ここで女子は、一度言葉を切った。
「優しくなんて、なかったよ」
一呼吸おいて放たれた言葉に、既視感が沸き上がる。
身長も、醸し出す雰囲気も、声も全く違うというのに。
『――どうやら、私の勘違いだったようです』
凪いでいた俺を取り巻く世界が一変して、震撼した。それも、目の前の女子の姿を掻き消すほどに。
『やはり貴方という人は――』
その言葉は口調こそ違うが、しかし以前俺の頭頂から爪先までを貫いた一言に等しかった。
身体中を駆け巡る血液が沸騰する。加速していく世界の、それは尋常でないほどの重圧。
「……うそつき」
器官が潰れそうに苦しい。声を出したら破裂してしまいそうだ。
『――…次、は…――』
蘇ってくる。次々と。
鮮明に、それでも輪郭はぼやけ、色褪せて。
オブジェクトのような質量を持った残像が、そこにはある。――はずは、ない。
ない のに。
「――そっか。…次、は……ない、よな」
全く同じ、だった。
依然として震わない声の抑揚も、たったの一音さえ相違なく。
本当のところ、次なんていらない。そう思うところも同じだ。
思い上がったように声のトーンを急激にはね上げて、女子は高らかに言った。
「あるわけないよ。…ほんと、酷いね、仁王君って。ずるいよ、ずるい」
女という生き物は皆こうなのだろうか。
金切り声で耳を潰し、涙が出れば勝ち――つくづく安い生き物だと思う。
できることなら、あまり関わらずにいたい。お目にかかりたくもない生々しい泥沼劇を自ら演じるくらいなら、一生彼女もいなくていい。
なんて、そう思ってしまうくらいに、その女子のしつこさは、それは酷いものだった。
これはトラウマ確定だな、と心の中でそっと呟く。
「――そっか。じゃあ、お別れ?」
「……どうしてそんな風にしてられるの?どうしてそんなこと言うの?…私のこと、好き…じゃ、ないの…?」
空に向かって大きく反った睫毛を大袈裟に震わせて、媚びるような態度で女子は捲し立てた。
正直、感慨も何もあったものではない。そもそもこの女はどこの誰で、俺の何なんだ?
俺はそこまで無用心でも不器用でもない。自分の恋愛事情くらい管理できる身分だ。
女はその強固なテリトリーに行儀悪くも土足で滑り込んできたと、要するにそういうことになる。
どういう了見かそいつは、長く付き添った彼女づらをして我が物顔で俺の名を呼ぶ。全く不愉快極まりない。
そんな礼儀知らずな小娘を受け入れられるほど大きな器は、俺にはない。いくら近頃考え事が多かったといってもそこまでの隙は見せたつもりではないし、今後見せるつもりもない。
それでもこの名も知れぬ女は、騒ぐのをやめない。
「答えてよ!私のことが嫌いなの、仁王君。はっきりして」
「……本当のこと、云ったら怒るじゃろ?」
間を空けて、逸らしていた視線を女子の方へ向けると、わなわなと震えるその重たそうな睫毛を称えた瞳と俺のそれがかち合った。
すると、俺の顔を捉えた眼がいきなりくわっ、と見開かれ、次の瞬間にはまた右の頬へ鋭い平手打ちが叩き込まれた。
なんの前触れもなく訪れた突然の報復に、どうやらこいつは左利きらしい――と、この期に及んでそんなくだらないことを考えている俺がいた。
――この小娘、俺が好意を寄せているとでも思っていたのか。
「…っ酷い…!ひどいよ…そんなの」
「はっきりせいって、云ったんはそっちじゃろ」
「……あんまりだよ。こんなの…許さないから」
許してくれなくとも結構、と言ってはきっと火に油だ。
けれども、物は試しと言う。ここでそれを言えば少なからず不完全燃焼よか面白い結果が待っているに違いない。
一度はやめておこうと思ったそれも『面白い結果』には抗えず(俺にだって並の知的好奇心はある)、ついうっかり
「許して、なんて言うと思うか?許してくれなくて多いに結構、清々するわ」
と、息継ぎもそこそこに言ってしまった。
好奇心故にとはいえ、流石に言い過ぎたような気もする。
これはもう一発、お見舞いされるな――と咄嗟に思った。
案の定、女子は左手で俺の頬にグーパンチをのめり込ませると、お得意の耳に優しくないキンキン声で何か一言罵声を放ち、つかつかと何処かへ行ってしまった。
「……プリッ」
寂しさなど感じなかった。
清々しささえ覚えるほど、なんだかすっきりした気分だ。
ざわつくのは、少し前の出来事を思い出した心と、殴られた右の頬だった。
「――…仁王君?」
先程の女子と同じ呼び方。しかしこれには、この声には、俺の心はしっかと震えた。
女子にされた時は不快でしかなかった苗字での呼び掛けが、今俺の背後に立っているであろう男にされると何故か心地が良い。
この感情には、名付けるなら何が適切なのだろう。
「……なんじゃ、柳生か」
何か用か、と聞こうとした。
――が。喉に何かがつまったようにくっ、と鳴るだけで、それが声になることはなかった。
やはり、今日の俺はどうやらどこかがおかしいようだ。
「……部活は行かないんですか?まさか怪我でも……」
「……馬鹿な女に捕まってただけじゃきに、心配せんでも怪我なんかしとらんぜよ」
「……そうですか。……仁王君にとって、私はそんなに信用なりませんか?」
俺はこのとき、さぞかし滑稽な顔をしていたことだろう。
「……なんじゃ」
「心配しなくても、誰にも言いませんよ」
「……何のことだか」
「貴方も頑固ですねぇ。……人様の失恋を話題に挙げるほど、私はネタに困ってませんよ?」
「……はぁ?」
失恋?俺があの女に振られたと?
――冗談じゃない。
俺はあんな品性に欠ける女とは、死んでも付き合う予定はない。
「誤解ぜよ柳生。俺はあんなのとは付き合っとらんし、付き合うつもりも…」
「案外強情ですね」
「だから…」
……埒があかない。
こうなってしまった柳生は、もう無視するしかあるまい。
「……場所、移しましょうか」
「……?」
またもからかわれるのかと思えば、今度は全く関係のない事を口走る柳生。
「……そう、だな。構わんぜよ」
特に断る理由もないので、二つ返事で承諾し、この偏屈な眼鏡に着いていった。
一体動いた先で何を言われるやら…。
と、思っていたのだが、柳生が立ち止まった場所は、体育館の裏でも人気のない廊下でもなく、購買の自販機の前だった。
何だ、こいつ。
「どうぞ」
柳生が差し出したのは、250mlの―いつの間に買っていたのだろうか―午後の○茶(ストレート)。
「……喉なんか渇いてないぜよ」
「……誰も飲めとは言ってません」
「……いちいち癪に障る奴じゃ」
ペットボトルを渡されて、飲む以外に何をしろと言うのだろう。
(……つくづくようわからん奴じゃのう)
思って、自分もそんなものだと気付いたのだが、それはまた違う問題。
「……察しの悪い人ですね」
そう言うと、柳生は俺の手から午後○ィーを取り上げて、俺の右の頬に押し当てた。
「……冷たいんじゃが」
「……三回」
「はぁ?」
「……打たれていたでしょう?かなり強かったと思いますが」
「……見てたんか、趣味悪いのう」
まずいものを、まずい男に見られてしまった。
……どうやって誤魔化そう。
「見たくて見たわけではありません。何が悲しくて他人の修羅場を見たがる人間が居るんです」
「だから違うって」
「往生際が悪いですよ。貴方らしくもない」
本当に、厄介な奴に弱みを握られたものだ。
……というか、あれは弱みでも何でもなくないか?
俺はあの女の彼氏でも何でもなくて、あの女は俺とは何の関係もない。どうして悩む必要があるだろう。
(ああ、いーこと思いついた)
「柳生」
「はい?」
この不名誉な疑いを吹き飛ばす為に、わざと柳生の口にキスをしてやった。
「……仁王君。いくら彼女に振られたからといって、滅多な事はするものではないですよ」
俺が咄嗟に引っ張って型崩れしたネクタイを直しながら、柳生がわずかに赤くなった顔を隠しながら言った。
少し、不機嫌そうだ。
「だーかーらー、違うって言ってるぜよ。あん女子とは何の関わりもないから、こうしておまんにキスしとるんじゃろ?」
とにかくこれで、すっきりした。
もう柳生にとやかく言われる事もないだろう。キスは蒸し返されないための口止め料だ。
――と、思ったのも束の間のことだった。
「……分かりました。今の――その、キス…は事故、という事にしておきます」
「……お前さんも中々に強情じゃのう。あれと俺が仲睦まじく見えたか」
「……他人の事は深く詮索しない主義でして」
「……言ってる事とやってる事がしっちゃかめっちゃかぜよ」