OP


□やがて巡りくる幻の日
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 てのひらサイズの砂時計の砂がまさかガラガラと音を立てて落ちるわけはない。騒音として私の心を捉えていたものが周囲の雑音に掻き消されている。たったそれだけのことだ。

 雨が降っている。国の王女の声が通っている。闇に葬られようとしていた歴史は今まさに暴かれんとしている。誰かがぽつりと彼の名を呼ぶ。疑惑へと変わり果てた声色で。

 崩壊を意味するそれらは全てが雑音でしかない。今までうるさいほど私に時の移ろいを報せていたその砂の集まりが落ちる音は、煩わしいそれらに掻き消されている。まるで今のあなたそのものじゃないか。膝を折り、私は血塗れの彼に声をかける。

「無様ですね、サー・クロコダイル」

「ど…て、……こに…い、る」

 切れ切れに彼は言う。その言葉をそっくりそのまま返してやりたい。私がちょっとこの地を離れている間に、どうしてあなたはこんなところまで来てしまったのだ。

 お前は誰だ、と周りがざわめきだす。「少し黙っていてほしい」と私は言う。彼の声が聴こえない。あなたたちはただ、私にとってどうということのない祝福の雑音にのみ耳を傾けていればいいのだ。

「ひょっとしてあなたは、私ではない誰かに尋ねているんですか? 悪魔の実の能力に決まっているでしょう」

 私は彼に微笑んで見せ、上着のポケットから繊細かつ豪奢な装飾を施したシガールケースを取り出す。これはサー・クロコダイルが特注したもので、いつの間にかこれを胸に彼の傍に控えているのが自分の当たり前になっていた。
 あれは何年前かしら。そう考えて、眉間に皺が寄る。意図的に伸ばす。もう少し歳をとったとき、私はあなたのせいでそんな場所へ真っ先に皺を刻まれた女にはなりたくないのだ。絶対に。


 疎ましい、ということは『決してない』。

 幸せか、と訊かれれば『とんでもない』。

 ならば憎いのか? 私は『それに答える術を持たない』。

 そもそも憎む権利すら何年も前に剥奪されているのだから。


 成金趣味の外観に分相応な太さの葉巻に火を点け、私は雨の中に煙を擦り込むように吐き出す。

「て、めェ…」

「お察しの通り、初めて迎える反抗期と言ったところでしょうか」

 お察しの通り、と言えど彼が何を察しているのかを推し量るでもない私は、単にわざとらしく悪態をついているだけだ。だって、私にはあなた以外に向ける心の矛先がないのだから。


 サー・クロコダイル。この胸が怒りに震えているのを感じるか? あんなにも横着に他人を蹴散らしておいて、あんなにも高貴に驕り高ぶっておいて、あなたのこのザマは何だ? 今まで私にずっと嘘をついていたのか? それとも最後の最後まで反面教師を演じているわけか?

 父よ、反論のひとつもしてみてはどうだ。いつものように、どうか私を説き伏せてくれ。


「鬼の居ぬ間に、私は幾度もこうしてあなたのシガールに火を点けました」

「…は、」

 彼の呼吸が絶えゆく鼓動への反抗だということは、とうに解っている。だから私も、もう我儘は言わない。説き伏せられるでなく、ましてやその逆でもない。ただ語る、滔々と。

「どうにもあなたの匂いがしますから。ベッドに入ったら、まるであなたに抱かれているみたいだった。私はあなたの体温を肌に感じながら眠りについた。幼い頃から子守唄の代わりにその香りを嗅いできたんです。安心もします。と同時に身体の内側は疼きます。それは途中からあなたからの子守唄などではなく、あなたとのキスになってしまったからです。まるでほんとうにあなたに抱かれているみたいだった」

「み…す、」

「お父さん。私にはあなたの声を聴き取ることができない」

 もう少し大きな声で喋ってくれないと。私がそう言えば、サー・クロコダイルは口端で微かに笑った。それは彼が「上出来だ」と笑うときの角度だった。

 違う。私はまたも憤り、眉を顰める。この状況下で彼からの切り返しが、よりによって愚答の最たるものだなんて。
 私がこんな生意気を突き付ければ「上等だ」と、遥か高みから見下ろすかのように吐き捨てるあなたのそれが正で、それが常だったのに。


 目を閉じて、静かに息を吸って、私は眉の皺を伸ばす。目蓋に雨粒を感じた直後、目を開ける。

「今のあなたは別人ですね。…それとも、こちらが本物なんでしょうか?」私は彼の額に張り付いた前髪をつい、と除ける。「いつかの薄暮れどき、瀕死の迷い子を拾ったあなたこそが、偽物なのでしょうか。彼女に食餌をやった父性、殺しを手解いた野性、処女を奪った本性、それらはどれも ―― 。…やめておきましょう。思い出を懐かしんでいる間にあなたは死んでしまう。さあ、これを吸って下さい。幾らかは、らしくなりますよ」

 私は、指の末端すら動かせぬサー・クロコダイルの冷たい唇に葉巻を差し挟む。彼は深海魚のごとく内臓への計り知れない圧力を受けながら尚、それを膨らませる。限界まで。

「嘘だの真だのとわめいても、結局のところ、私はそれがどちらでも構いはしないのです」

「…それァそう、だ。何があったって、おれがおまえ、の…父親であることに変わり、は、ねェ」

 私は驚いた。彼の口調が唐突に変貌したのもそのせいだ。しかし彼がいつの間に私の思考すら読めなくなっていたことに、より一層の驚きを隠せなかった。

 私たちはもう、とっくに他人の類だったのだ。知らぬは私たちふたりばかりで、父と呼ぶには、そして父を語るにはまるで遠い。それは取り返しのつかない領域の嘘だ。

「それは違います。サー・クロコダイル。あなたが私にとっていちばん大切な存在だからです」

「父親…だと、言ってんのが、」

「反抗期だ、なんて悪ふざけが過ぎましたね。私は今回ばかり……いえ、今日からはあなたと対等の人間です。意を曲げる理由はどこにもありません」

 実際のところ私たちは出逢ったときからいつでも同等で、そう在り続けることが何よりも必要だった。
 ところがそれは彼によって酷く捻じ曲げられていた。彼は敢えてそれをしないことで私を護ると同時に、繋ぎ止めてもいたのだ。
 私はそのことにもっと早くに気付き、臆病な檻から抜け出すべきだった。そうして彼を幾ばくかでも安心させてあげられていたなら、私たちを取り巻く環境は今とはまた、違ったものになっていたのかもしれない。


 「サー・クロコダイル。私はあなたの子ではないし、あなたは私の父ではない。そんな枷がなくとも、私はどこにも行きません。だから、あなたは私にとっていちばん大切で、かけがえのない存在なのです」

 彼は大きく葉巻をふかす。喉が上下する。さあ、斯くてあなたがその昔、憂愁で埋めた墓が暴かれる。最上の返答は喉の底深く眠っていたのだ。

「…んなモンはお前が生まれた、その日から今まで、俺にとっては…そうだった。これから、も」

「感謝しない日はなかった、…ですか?」

 彼は弱気に「言うようになりやがって」と笑う。サー・クロコダイルにおよそ似つかわしくはない。が、それでも私は嬉しい。彼は彼であり、それでいて最早私の知る彼ではないことが、嬉しい。


「サー・クロコダイル。私はもう長いことあなたの血を見ていなかったから、本音を言えば、とても怖い。けれど砂時計はじきに海軍が来ると告げています。…あなたは、生き延びる」

「上等じゃねェか」

 私は彼の頬に唇を近付け、元は乾いた砂だったものにキスを落とす。血に濡れて、雨降って、砂は固まる。私たちの時間は一旦、ここで止まる。


「私は行きます。追いついてきて下さい、サー・クロコダイル。きっと私を、捜し出して」

「…あァ」

「今度会ったら私たち、最初から恋人同士になりましょうね。約束ですよ。

 ……さようなら、お父さん」


 私は砂時計を持って歩き出した。入れ替わりで海兵らが今にも泣きそうな表情の女性に引き連れられ、サー・クロコダイルの前へ整列する。「海軍本部の名の下に」、と告げた彼女の抑揚を抑えた声に、崩壊が混じっている。彼女も私と同じように、その瓦礫の上に立とうとしているのだろう。



 私たちはいつから奪われ始めたのか。奪われ、その都度与えられる何かを次こそは逃さんと躍起になって掴んで、奪うほどに失う。涙する。そしてその陰に必ず誰かの笑顔がある。もしくは何らかの形での恵みが降る。

 ちょうど今日という日の天恵に雨が選ばれたように、幸福と不幸は同じ瞬間、同じ場所に存在している。だからこそ私たちはこれ以上、何も憎むべきではないのだ。たとえそこに、いかなる権利があったとしても。


「約束する。ミス・ハッピーバースデー」

 サー・クロコダイルから贈られた祝福の名は、私に届かなくなる一瞬手前で不思議なほど豊かに響いた。後ろを振り返らずに私は頷く。左手の最後の砂が落ちる。 ―― 十分が、経過した。


 砂は、彼の肌の色をしている。彼の肌は、砂の色をしている。私がこの砂時計を後生大事に抱える限り、それが変わることはない。
 約束と運命、彼の二本の指の欠片がそこに生き続いている。私には今になってようやくそのきらめきがはっきりと見える。

 だから決して泣くものか。この砂がやがて彼へと帰して私たちの時間が再び流れる、その日まで。




( 20120905 // そうです、社長をお父さんと呼びたかったってただそんだけの話です )



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