PEDAL


□桟橋の少女
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 海へと伸びる桟橋に腰掛けて、地平線を一日じゅう抑揚なく眺めているのが知古千佳という人間だった。感情の起伏は当然あるにはあるのだろうが、深海で放つ言葉はなかなか表面まで浮き上がってこない。オレが知るなかの誰よりも物静かなその女性は、近付けば近付くほどに心地よかった。


 彼女のその小さな港には、いつも金城さんがいた。幼馴染という名の碇を心のずっと深いところまで下ろして、舟もまた静かに身を寄せていた。

 時折、水面下に魚の影がちらつく。彼女の目はそれを不思議そうに追う。自分と違う生き物の動きを観察するみたいに。





 2年に渡って独りで自転車競技部のマネージャーを勤めていた知古さんは、寒咲の扱いに困っているようだった。持て余す、と言った方がいいか。役割の分担はどうしても避けられず、それにはコミュニケーションが必要不可欠で、そういった能力に乏しい彼女は大分と手間取ったようだ。

 そんなことを金城さんがオレにぽつりと漏らした。1年生レースの少し後だ。

 金城さんは教室のバルコニーから地上を見下ろしながら、彼女とオレが少し似ていると言い微笑んだ。知古さんと寒咲が2人で部室に向かっていくところだった。


 練習の時は大概、タイマーを寒咲に持たせて、彼女は鉛筆とバインダを手放さなかった。

 髪をひっつめて下の方で結っているのが美しかった。

 先輩達のタイムを知りたいと言って手元を覗き込めば、静かに背中を強ばらせていた。

 木陰で日光が遮られていてもやはり暑い夏の日だった。オレは汗の珠の浮く細い首筋に触れてみたいと密かに思っていた。結局オレが手を伸ばす事は一度もなく、彼女は卒業した。





 洋南大学に入っても、その光景は変わらなかった。

 彼女の人付き合いは極端に狭く、自転車競技部に所属するごく一部の人間とごく僅かな会話しかしていないようだった。宴席にもほとんど顔を出さず、視界に入ったときは相変わらず金城さんに寄り添うようにして佇んでいる。

 病的なまでの非社交性は彼女自身が望むものだから、無論快方に向かうわけもない。

 けれど驚いた事に、荒北さんには微笑みを見せていた。それが何だか悔しくて。





「今日はオレがバス停まで送りますよ。もう日も暮れますし」


 腹を空かせた選手たちが今から何処に行こうかと熱く議論している脇でひとりベンチに腰掛けて靴を履き替えている知古さんの隣にスポーツバッグを下ろす。ジャケットを羽織るオレを見上げてから、彼女は一瞬視線を彷徨わせた。彼を探しているんだろう。


「あららァ。俊輔クンは来ねーのォ?」

「…荒北さん」


 聞きつけたんだか嗅ぎつけたんだか分からないが、底意地の悪い笑みを浮かべて荒北さんは声を張る。ここから彼らのいる出入り口付近までは結構距離があるのに。隣にいた金城さんが、当然こちらを振り返る。


「ええ。今日は家でローラー回したい気分なんで。ついでに知古さんをバス停まで送っていきます」

「…そうか。無理はするなよ。千佳をよろしく頼む」

「ハッ! 相変わらずおりこうチャンなこって。イヤ、それとも…送り狼がしてェだけかぁ?」

「茶化すな、荒北。じゃあまた明日」


 ぞろぞろと、ぶどうの房が扉を通り抜けるみたいに部員が出て行く。ざわざわ、遠ざかる音を知古さんは縋るような目で追っている。


「靴、履けましたか。オレたちも行きましょうか」

「…あ、はい……」


 知古さんは薄ぼんやりした灰色のスニーカーを自分のロッカーに揃えて入れる。

 オレの自転車は置いて行く事にする。家にも何台かあると言うと先輩達にはボンボンだと馬鹿にされるが。





 まだ残っていた数名の部員に戸締りを頼んで、オレたちは最寄の停留所に向かって歩き出した。彼女はオレのいる側に鞄を持って、50センチほどナナメ後ろをついてきた。それがオレたちの距離だ。今までに2人きりになったこともない。


「家、遠いんでしたっけ」


 もっと大学の近くが便利なんじゃないか、と歩きながら聞いてみた。ちょうど正門をくぐったところでようやく発した第一声だった。


「ええ…そうですね。30分かかる…り、ます。親戚のお宅で、お世話になってますから…」

「さっきから気になってたけど、何で敬語なんですか。他人行儀で、オレちょっと傷つきますよ」

「えっ…。あ、そう…他人行儀というわけではないのだけど…。今泉くんがしっかり敬語だから、わたしもちゃんと返さないとと思って、かしら…?」

「イヤ、オレ後輩ですから。当然でしょうそういうのは」

「…そうよね。ごめんなさい」


 謝らせたかったわけじゃない。更に10センチ後方に下がってしまった知古さんに、自分のこんな表情が見えないのは不幸中の幸いだが。


「…だったらオレがもうちょっとくだけた喋り方になれば、知古さんも、そういう風に返してくれますか」
 

 洋南大学前、の名のつく位だ。大通りのバス停にはもう着いてしまった。学生が何人かと、スーツ姿の中年男性と、年若い夫妻が備え付けのベンチに座って待っていた。父親の膝で幼い娘が眠りこけている。歳は幼稚園児という頃か。

 そういえばあれはつい最近のこと、小野田と一緒に沢山ガチャガチャのある所にいたとき、このくらいの背丈の少女が脚にぶつかってきた。慌てて怪我はないか訪ねようとしたら、すっ飛んできた母親に変質者呼ばわりされた。

 そういう時代だ。暗くなくたって、距離が近くったって、いくら人目があったって、何が起こるか分からないんだ。


「ああ…それがいいかしら。鳴子くん達と話してる今泉くんを知ってるから、何とも言えない気持ちになるの」

「アイツは例外なんで。…アレが普通のオレだと思われたくない」

「そうかな。あっちのほうが、年相応な感じはするけど」

「やめてくれ、気持ち悪い」

「あら、鳴子くんがかわいそう。何もそんな顔しなくたって」


 ふふ、と唇の端が綻んだ。オレはソレを食い入るように見つめてから、ハッとなって目を逸らす。こんなんじゃ、すぐにバレてしまう。だけど、嬉しい。知古さんが笑った。“可哀想”な鳴子に対してか、オレの“そんな顔”が笑いを誘ったのか、そこまでは分からない。けど表情筋の乏しい彼女がこんな顔でいてくれるならいつまでも鳴子を貶していたいし、その為なら自分がどんなひどい顔をしていてもいいと思う。


「あの…、こんなに近いのにわざわざ送ってくれてありがとう」

「そんなに遠慮しなくていい」


 じゃあ、と彼女の唇が紡ぎかけたのを遮ってオレは、どちらかというと自分が被害者であるように思う先ほどの事件の顛末を彼女にも話して聞かせる。あなたも何が起こるか分からないから気を付けた方がいいと。


「今泉くんが変質者?」


 知古さんは今度はよりはっきりとくすくす笑った。上品に口元に手をあてて静かに。でも、確かに。彼女がせっかく俯いているのだからと割り切って、凝視する自分。

 たとえばテレビなんかに出演するようなお笑い芸人は、これと似たような出来事を経てその道を志すのだろうか。自分の汚点が誰かの笑顔に成りうると知ったとき、もっと汚れてやろうという野心が芽生えるのかという話だ。

 つまり平たく言うと、彼女に笑っていてほしい。ずっと見ていたい。恋はどうしてこうも人を短絡的にさせる。
 


 とにかくバスが来るまでは一緒にいたい。次はどんな話で繋げればいいんだろうと考えを巡らせる矢先、知古さんが鞄から携帯電話を取り出した。連絡先を交換する申し出があるのかと跳ね上がった心臓は「ごめんね、メールが来たみたい」という断りの一言で地に叩きつけられる。まあ、普通に考えて彼女からそんな言葉が聞けるわけはない。


「あ…」


 メールを読み進めるうちに少し困り顔になった彼女に、どうしたと訪ねた。


「いえ…送ってもらって悪いんだけど、その…いまお世話になってるって話した親戚の方に、おつかいを頼まれてしまって」

「おつかい?」

「ええ。明日、訪問があるみたい」


 そうこうしているうちにバスが停まって、乗客が乗り込んでゆく。フロントガラス越しに運転手と目が合って、オレたちが乗らないことを手を振って伝えると、ため息のような音をたててバスの扉は閉まった。

 走りだしたバスを目で追う彼女に「この近くですか」と聞いたら、「ええ、まあ」と素っ気ない返事をされる。着いてくるなという事だろうか。もう一歩踏み込むのは躊躇われる。今日は彼女を誘ってこうして一緒に歩けただけで、大きな進歩だと思うから。


「今泉くんは、和菓子は好きかしら」

「……は、あ」

「たとえば、どら焼きとか」

「…食います」


 少しずつ距離を縮めていけたらいいかと呑気に構えていた自分の頭には、まるで隕石が降ってきたような衝撃だ。好きな食べ物の話題。自分に興味を持ててもらえてるんだろうか。たった今から、オレの世界でブッチギリ一番好きな食べ物がどら焼きになった。


「どら焼きで有名な店があるの。送ってくれたお礼に買っておくわ。明日も練習に来るでしょう」

「あ…今じゃないのか?」

「…あ、今がよかった?」


 カコン。携帯電話が閉じられた音は、舟の船首が桟橋に当たった音によく似ていた。初めて、そこにいる彼女と目が合ったような気がした。揺れるオレは、目を少しだけ丸くした彼女に手を伸ばす。


「……一応、お礼って事ならちゃんと送り届けた方がいいだろ」

「…それもそうだわね。じゃあ、行きましょうか。向こうの道路を渡るの」


 細い指がオレの手に乗せられたのは引き上げる為ではなく、あくまで了承のサインだ。オレは彼女の力は借りず、橋の木板に足をかける。体重がかかるところまでいくと、舟を蹴った。別にここから帰る手段なんてなくたっていいと、本気で思ったから。


「知古さんは食った事あるのか、そこのどら焼きを」

「ええ。他とは段違いにおいしかったわ」

「じゃあ、オレもひとつ、あなたに買いたい」

「…どうして?」


 波にさらわれていく舟に対する問いかけにも思える。彼女の隣に腰を降ろす。


「そうしたい気分だからとしか言えないな」

「ふぅん…。優しいのね」


 静かな中で、オレの心臓だけが響いている。彼女はその隣で音もなく笑っている。それが今、オレの望む全てだ。






( 20160614 // 今泉くんの好みのタイプは目がクリッとした女の子という事ですが、もっと詳しく言うといつもは伏し目がちなんだけど、ふと自分を見る時にクリッとなる。そういう瞬間にロマンを見出す男の子なんだと勝手に思っています )



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