PEDAL


□5万打御礼企画
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case1:福富寿一


 オレの姉さんは料理がうまい。その事実にオレは、箱根学園に入学してからようやく気付いたのだった。



「姉さんの料理が食いたい」

 電話口でそう伝えると姉さんは困ったように「どうしたの、寿一?」と笑うので、「笑い事じゃない」とオレは反論した。
 おそらく他校よりは随分考えられているとはいえど、学食も寮での食事も、食欲旺盛な若者向けなメニューと味付けに設定されているのだ。
 それに、体はレーサーの資本だ。カロリー計算や栄養のバランスも自分で考えなければいけない。

「栄養の方は、いきなりじゃちょっと難しいよね。私がよく使っているサイトのリンクを後でメールで送るから、参考にしてみて」

 看護師を母に持つオレたちの食事は、姉が作ることも多かった。
 味と見栄えを保ち、尚且つ体を作るための料理を試行錯誤していた姉に、もちろん今までも感謝はしていた。しかし失って改めてその存在がどれだけ大きかったか。そしていかに尊敬に値すべきものであったかに気が付かされた。

 姉さんの料理はうまい。だが、うまいだけじゃない。それには温かみがあった。

「姉さんの料理には、愛情がこもっていたんだろうな」

 ご馳走、という言葉は料理を作る者が、振る舞う者をもてなす準備のためにあちらこちらへ奔走することに由来しているという。姉さんの食事はいつも、そういった影なる労苦が窺えるものだった。彼女がオレたちのためだけを想って作っていてくれたものだったのだ。
 だからおいしかった。だから、いつでもご馳走だった。

「あら。ホームシックなのかしら? まだ4月も終わってないのに」
「だから家でなく、姉さんの料理が恋しいと言っている」
「ふふっ。やっぱりお兄ちゃんより、あなたの方が素直でかわいい弟だわ、寿一」

 姉さんの笑顔が頭に蘇ると、途端に腹が空いた。男ばかりと姉で食卓を囲んだ昔を思い出したからだ。
 うまいものをうまいと、たった一言伝えただけで姉さんは、それはそれは嬉しそうに微笑んだものだ。
 もてなす側の気持ち、というのはオレにはまだ分からない。今度家に帰ったら、姉さんの手伝いをしてみようかと考えた。もちろん、邪魔にならないのであればだが。

「お兄ちゃんがハコガク生だった頃ね、よくあなたの調子を気にして外回りのついでに帰ってきてたでしょう? ついでにそのまま、お夕飯まで居座ってたでしょう」

 兄さんは、父さんやオレと違って、あまり姉さんの料理をほめたりしなかったと記憶している。
 まだ幼かったオレは、無言で皿に箸を伸ばす兄さんは、姉さんの料理がそこまで好きなのではないのだとばかり当時は思っていたのだが。

「ちょっと照れ屋さんなのよね、あなたのお兄ちゃんは」

 ああ、そうか。
 本当は兄さんもオレと同じように、姉さんの料理が恋しかったんだな。

 性格は違うとはいえ、さすがは兄弟だ。
 同じ血を分けている上に同じものを食べていたとなれば、どうして考えることが似ずにいようか。

「ついでに言うと、あなたの弟でもあるが」
「そうねぇ、さっきの言葉は取り消すわ。照れ屋さんの弟も、素直な弟も、わたしはどちらもだいすきよ」

 だからそれは、料理を通してもう充分に伝わっているというのに。あなたの愛情はそれだけでは器に収まりきらず、下にいるオレたちに零れてしまっていることに、彼女自身は気付いていないのだろうか。

 姉さんの真っ直ぐな言葉に、体温が少し上昇する。
 今でこそ恥ずかしさが勝るものの、いつかは――できれば兄と共に――ちゃんと伝えなければならないな。あなたは最高の姉なのだということを。

「じゃあ、今度のレースはお弁当を持って応援に行きましょうか?」
「ぜひ、そうしてほしい。・・・少し多めで頼む」
「わかったわ」

 と、くすくす笑う姉さんは、「いつでも家に寄ってらっしゃいね。ご飯くらい、いくらだって作ってあげるから」と続けた。
 しばし考えて、今のうちにそうした方がいいだろうな、という結論に至る。

「そのときは、連絡する」
「ええ。待ってるわ、寿一」

 もし彼女がどこかへ嫁いでしまったら、料理だってもうおいそれとは食べられなくなる。気立てのよい彼女のこと。それは時間の問題だろう。

 ――そう。あの食卓に姉さんが当然のごとくついている。そんな光景、彼女の笑顔は、この先もずっと約束されたものではなかったのだ。

 そして電話を切った瞬間、認識を新たにする。
 自分は何も姉さんの料理に飢えていたわけではない。彼女の無償の愛に触れていられる時間が、ただただ、愛おしいのだと。


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