【暗闇で孕む】
□第一話
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しとしと、しとしと。
雨が降る。
ザザァッ―――
―――彼の澄んだ瞳。
コツコツ、コツコツ。
規則的に歩み続ける。
ザザァッ―――
―――父の惨たらしい死体。
ポツポツ、ポツポツ。
雨つぶがビニル傘を叩く。
ザザァッ―――
―――兄のエゴに歪んだ顔。
…雨の日は、色々な記憶が次々と浮かんでくるから、好きになれない。
私は重い頭を緩く振り、それらを振り払おうとした。
そう言えば最近、大人になってから好きになれない物ばかり増えた気がする。ならば、自分の好きな物はなんだろうか。
嫌な事を考えないように、別の事に思考を反らせながら、足元ばかり見て歩く。
まあ、すっかり猫背が板に付いてしまった自分の視界は、いつも足元ばかりが占めているが。
好きなもの…まず数学と、カレーと、それから。
「あれっ、尾形さん?今帰りっすか?」
アパートの階段途中で背後から声を掛けられた。
振り返って声の主を確認する。
予想通り、隣に住んでいる井上くんだった。
「…あぁ。今日は終業式だったからな」
「あ〜そっか、忘れてた。通りで早いわけだ。あ!じゃっ今晩空いてます?また授業でちょっと詰まっちゃって…」
「あぁ、構わないよ」
「やった!さっすが尾形さん!やっさしー!」
小さな子供みたいにはしゃいで、太陽の様な笑顔を見せる井上くん。
暖かく、柔らかい空気が雨空の下に漂い始めた様な気がして、少しだけ肩の力が抜けてゆく。
「はは…そんな事…」
「ありますよ!それじゃ、俺手伝いに行ってくるんで。また夜に」
「あぁ」
何だか若い女性の様に…というのは男性に使う表現ではないのだろうが、キラキラと笑ってころころと表情を変える井上くんを眩しく思いながら、そんな彼の背中を少し見送って、自宅へと戻る。
井上くんは大学二年生で、授業が無い時はああやって彼の母親が経営する弁当屋の手伝いをしている、親孝行な子である。
私がその弁当屋で何度か弁当を買ううちに彼から話し掛けてくるようになり、そして現在では彼をウチに招いて家庭教師の真似事をするようにまでなった。
そうしていつの間にか、自分の好きなものリストに、彼が追加されていた。
私にとって彼は、幸せの象徴であった。
暖かい日溜まりの様に穏やかな幸せの象徴。
しかし、私は。
幸せになってはいけないのだ。
いずれ、いつか、早く、彼から離れなければ。
彼処から逃げ出した私に、幸せになる資格など無いのだから。
―――雨はまだ降り続いていた。