【暗闇で孕む】

□第三話
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 俺と母さんの生活は確実に保証されるらしい。
 兄の良心か、口止め料としてなのか…どちらにせよ、もう後数日で兄の事を兄さんと呼ぶ事は許されなくなるのだ。

 「母さん、ほら、ご飯だよ。食べて」

 自宅療養が許された母をベッドに寝かせて、ベッドごと上体だけを起こし、その口元へ、お粥を掬ったスプーンを寄せる。
 しかし、母はただぼんやりと窓の外を眺めるだけで、此方を見ようともしない。

 「………っ」

 その姿に虚しさと悔しさばかりが溢れてきて、口の中が苦い。

 「なぁ、母さんっ…!食べてくれよっ…!」

 どうして、俺達がこんな目に合わなきゃいけないんだ。
 父さんが、母さんが、兄さんが、俺がっ!何をしたって言うんだ…っ!

 一瞬、麻田への憎しみが増大した事で兄の誘いを断った後悔が過ぎるが、首を振って霧散させる。


 『お前は父さんに似てるな…羨ましいよ』

 兄の静かな声が脳裏に蘇る。

 兄さん…。

 そういえば、母さんはあからさまじゃないにせよ、兄さん贔屓だったな。
 母さんが、ご飯を食べてくれないのは兄さんじゃないからだろうか…。

 俺だけが残って、兄さんが離れて。

 それで本当に良いのだろうか?

 母さんは俺じゃなくて兄さんの方が嬉しいんじゃないか?

 それに兄さんも、あんな計画を立てて実行に移そうとしている…兄さんは、兄さんの本当にやりたかった事はそんな事なんだろうか。
 もしかしたら、今はただ自暴自棄になっているだけじゃないのか。

 俺は…兄さんにだけ手を汚させようっていうのか。
 今だったら、まだ引き返せるんじゃないか?

 良いのか?このままで、本当に?

 ───…いや、良いはずがない。

 『次のニュースです。麻田議員は本日も駅前広場での街頭演説を予定しており───』

 ふいに、流しっぱなしにしていたテレビからアイツのニュースが流れ始めた。
 テレビに集中した俺の手から力が抜け、カチャリ、とお粥が入っていたお椀とスプーンが接触して音を立てる。

 「〜〜っあ!ああっ!うあぁ!」
「──っ!?母さんっ、ごめんっ!」

 慌ててテレビの電源を落とし、急に半狂乱になった母の背中を撫でさすって落ち着かせる。
 おそらく…麻田というキーワードに反応したのだ、母は。

 やはり母さんは何かを知っているんだ…。父さんが死んでしまった事について。その事に麻田が関わってる事について。

 そう思った瞬間、突然決意が固まった。

 「───母さん、出掛けてくるよ。父さんの仇を討つんだ」

 返事はない。
 母はただうずくまって、ガタガタと震えていた。
 その姿に、元気だった母はもう二度と帰って来ないのだと、感じた。

 そうだ。
 俺達の人生はもう滅茶苦茶なんだ。
 どうせ戻れないなら、麻田を道連れにしてやる。

 あぁ、そうか…。もしかしたら兄さんもそう思ったのかな。

 台所に駆け込んで果物ナイフを学生服のポケットに突っ込み、そこではたと気付く。
 学校から帰ってきてそのままだったが、この恰好だと、成瀬の息子とバレて近付けないだろうか。
 いや、この学生服はどこにでもあるようなデザインだ。
 それに、幸いにして今は雨が降っている。傘で顔を隠してしまえば問題無いだろう。

 時間が無い。

 もう少しで演説が終わってしまう可能性もある。
 さっさと出よう。

 玄関を出るとき、俺は父の黒い傘を掴んだ。

 一緒に行こう、父さん。

 傘は差さぬままに雨の中を、駅前広場に向かって走り出す。

 母の事は兄が何とかしてくれるという確信があった。

 母さんは兄さんと静かに暮らして、俺は父さんの仇が討てる。これで、万々歳じゃないか。
 何も…心残りはない。

 麻田に近付く事だけを考えながら、俺は全速力で駆け抜けた。




 『雨が本降りになってまいりました。皆さんが風邪を引かれてしまっては忍びなく思いますので、退屈な演説もここらへんにしておきましょう』

 顔を隠す為の傘を差し、荒い息を徐々に落ち着かせる。

 演説を終えた麻田が選挙カーを降り、周囲の聴衆と握手をし始めた。

 ───間に合った…。

 安堵したその時、麻田の秘書が青いフードの男に、なにやら目配せしているのが見えた。

 …なんだ?

 いや、そんな事はどうでもいい。
 秘書の目が麻田に向いていない今が、チャンスなのだから。

 そう判断し始めはゆっくりと、徐々にスピードを上げながら麻田に近付いていく。
 ポケットの中で果物ナイフの柄を、強く握り締めた。

 その瞬間。
 真横からあの青フードの男が現れ、邪魔だとばかりに俺を突き飛ばしながら、麻田にナイフを向けて駆け寄っていく。
 突き飛ばされた俺が、雨で濡れた地面に手を付くようにして倒れ、顔を上げた時、それはもう、起こってしまっていた。
 青フードの男の足元に横たわる人影。
 女性の悲鳴。
 男性の雄叫び。
 揉み合いになり、ナイフを取り上げようとした男性も刺され、倒れる。
 子供が、澄み切った真っ黒な目を、麻田の腕の中からそれらの惨状に向けている。

 刺してしまった。
 まるで自分がやった事のように、そう思った。

 ザアッと、血の気が引いた。
 この惨状はもしかしたら、俺が引き起こしてしまっていたのかも知れないと、気付いたからだ。
 そう思ったら、もう麻田にナイフを向けれなかった。
 人を刺すという事の罪深さを改めて気付かされてしまったのだ。

 茫然と、麻田が子供を残し秘書と共にこの場を立ち去ってゆくのを見送る。

 そこで気付く。
 とたん、ぶり返す怒りの熱。

 さっき黒服に取り押さえられていた青フードの男が、俺のせいじゃないと叫んでいた。
 麻田の秘書が青フードの男に目配せしているのを思い出した。
 繋がる思考。
 勘でしかないが確信する。

 あの男は!麻田は!この惨状を引き起こした原因の癖にっ、子供を置いていったのだ!

 とっさに子供に駆け寄り、この子の両親であろう血まみれの男女の姿を隠すようにして子供を抱き寄せる。

 あの男は俺達家族だけでは飽きたらず、この子の家族まで壊そうというのか!



 その後、やって来た救急車に子供を乗せて一緒に病院まで付き添い、その後も子供の両親が入った手術室前で子供の隣に座っていたが、麻田と一緒に事情を聞きに警察が来ると聞いて、自分のポケットにナイフが入っているのを思い出した。

 まずいな…早く此処を離れて───。

 そう思ったが体が前に行かない。
 隣に座っていた子供が俺の腕を掴んでいたのだ。

 「…ごめん…俺、もう行かなきゃ…」
「…っ」
「わっ…泣くなっ、えっと、あー、君、名前はっ?」
「…かおる…」
「カオルくんか。カオルくん、あのな、今から沢山の人が来るから、俺はもう行かなきゃいけないんだ。俺が此処に居ると、大変な事になっちゃうんだよ…だから、その、ごめん、な…」

 子供は俯いて一拍開けてから、スルリと俺の腕を放した。
 その聞き分けの良さに、泣きそうになる。

 「…おにーちゃん、おなまえは?」
「あ、あぁ。×××××っていうんだ。あっ…これは誰にも内緒だぞ?」
「うん…わかった。バイバイ、×××××おにーちゃん」
「あぁ」

 立ち上がろうとして、その前にもう一度カオルくんを抱き締める。
 熱っぽい、子供の体温と雨の匂いがした。

 「大丈夫だ。絶対、大丈夫だから」
「うん」

 そして、今度こそ立ち上がる。

 「バイバイ…またな」

 俺はそう言って手を振った。
 カオルくんは無言で手を振った。





 「お前、どこに行ってたんだっ!?あんな母さんほっといて!」
「…あの男の所……」

 どうやら家に戻った時にはもう、あの事はニュースになっていたようで。
 その言葉だけで兄は悟ったようだった。
 その兄の手に、お粥が入っていた筈の空の椀が握られている。

 「お前…」
「うん」

 そうやってこっそり病院を抜け出したはいいが、家に帰ってもずっとあの子の事が頭から離れなかった。
 しかしまだ学生だった己に何が出来る訳でもなく。
 母を連れ、名を変えて引っ越した先で見ていたテレビのニュースで、カオルくんの両親は結局息を引き取り、麻田夫妻がカオルくんを引き取ったという事を知った。
 暴漢から子供を救い、更には身寄りの無くなってしまった子供を引き取った麻田はすっかり英雄扱いで、反吐が出る思いでそれを睨み付ける。




 十数年後、あの子と再会するだなんて、思ってもみなかった。




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