【暗闇で孕む】

□第四話
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 確かに力強く、真っ直ぐに歩いていく人だと思っていた。


 私、井上靖子と麻田との出会いは、まるで少女漫画のワンシーンのようで、私はそれに酔っていたのかもしれない。
 麻田と私はやがて夫婦になり、あの頃は確かに愛していたけれど、私達の間に子供は出来なかった。
 それが原因か。少しずつ、あの人は私から離れて行った。それも当然だ。最初からあの人は私なんて愛していなかったのだから。子供が出来なかった事は今となっては、良かったのかもしれない。

 あの人が私を愛していなかった事を知ったのは、自然な流れだった。

 最初はただ忙しいだけだと。忙しくて、つい苛々してしまっているだけだと、そう思っていた。
 結婚してすぐにあの人は私に冷たく当たるようになって、私がどんなに努力してもそれは変わる事がなかった。
 けれどあの人は、私の実家からの援助を何かある度に催促し続け、私はそういう事だったのねとやっと理解した。

 あの人は私を、資金源と自分とを繋ぐパイプ役としてしか見ていなかったのだ。

 それでもいつかは、私を見てくれるのではないかと。私は馬鹿みたいに一心に、出会った頃のあの人が本当のあの人なのではないかと、信じ続けていた。

 それでも寂しくて、悲しくて、苦しくて。どうにかなってしまいそうだった。
 あの頃の私にはあの麻田邸がまるで檻のようで、その中に閉じこもっていた私はすっかり、逃げるという選択肢の存在を忘れてしまっていた。

 やがて実家からの資金援助を渋るようになった私は、あの人の中で女としての価値も無くなったようで、あの人は外で女を作っている事を隠さなくなり、私の存在価値は麻田邸に数ある調度品の一つと変わらなくなった。


 そんなある日、あの人が刺されそうになったと聞いた。それに巻き込まれて一組のご夫婦が亡くなり、その方達の息子さんだけがあの人に庇われる形で生き残った、とも。
 数日後、あの人は何やら秘書の方と相談し、私には事後承諾という形でその生き残った息子さんを引き取る事にしたと告げて来た。

 可哀相に、こんな家に引き取られて。ご夫婦の代わりにこの男が死ねば良かったものを…。


 引き取った男の子は薫くんという、可愛いらしい子だった。
 薫くんは異常な程に麻田を恐れた。
 一度テレビの取材であの人の隣に立たされた際も、顔色を青白くさせてカタカタと震えていたし、途中で吐いてしまってもいた。

 あの人の方は何度か薫くんに声を掛け、距離を縮めようとしていたがそんな拒絶反応は改善されず、やがてあの人も飽きてしまい、薫くんに近付かなくなった。

 私は当初、薫くんに関心を向けられないでいた。
 麻田がまた置物か何かを買ってきた、それと変わらない感覚でいたからだ。
 だから私は、お手伝いさん達が薫くんについてこれはどうすれば良いのかと訊ねて来る度、何故いつもと同じ様に、各々の裁量でいいようにしないのか不思議で仕方がなかった。
 あの子は麻田の持ち物で、私の物じゃないのに。

 そんな事が続いて、お手伝いさんの方がじれたのかまるで叱るような口調で、薫くんが部屋から出ない事、食事をあまり食べない事を告げ、そして最後に、

 「せっかく出来たお子さんなんですから、もう少しお母様として声を掛けてさし上げたら如何でしょうか?」

 と付け加えた。


 私はとても吃驚してしまった。

 母。

 この私が。

 「…そう…私、お母さんだったのね…」

 あの子と、話さなくては。
 私の中でかつて子を宿したいと願っていた頃の想いが蘇り、それに引きずられる形で私という一個の人間に色が戻ってゆく。
 調度品の一つとなっていた女は影を潜め、どこにでもいる母性を持った平凡な女の顔が首をもたげる。


 こうして、私と薫くんは親子としての人生の第一歩を踏み出したのだ。

 …しかし、私達は何も知らなかった。
 薫くんのご両親が亡くなる原因を作ったのが、夫の麻田だという事を。

 数年後それを知った私は麻田に愛想を尽かし、離婚に至る。

 そうして自由を得たと喜んでいた当時の私達は、何一つ、疑っていなかった。

 家を出て、二人の力を合わせて、未来を切り開いていけるのだと。
 きらきら光る未来が待っているのだと、そう信じていたのに…。




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