【暗闇で孕む】
□第五話
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三時限目の途中で教頭の田淵先生が真剣な面持ちで現れ、職員室に行くように、との指示を貰った。
どうやら全ての職員に声を掛けているらしく、田淵先生は休む暇無く隣の教室に入っていく。
元々静かでは無かった教室内は、しかし先程とは違った意味でざわつき始めて落ち着きがなかった。その中で、携帯を見ていたらしき一人の生徒が隣の生徒に、「国会議事堂でなんかあったらしいからそれじゃね?」と、言っている声がやけに大きく私の耳に届いた。
一応教師として私が居ない間の指示を飛ばしながら、ジットリとした嫌な予感で首の後ろがざわつくのを感じていた。
国会議事堂。
もう随分と前に縁を切った兄が居る場所だ。
いや、そんなまさか。
一瞬だけの想像が火種になり、私の不安を煽り立てた。
それによって最初は緩やかだった歩調の速度が、徐々に上がってゆく。
あぁ、嫌だ、外れてくれ。
私は、嫌な予感を振り払えないままに、職員室の戸を開けた。
そして。
「…これって国家反逆ってヤツ、ですよね…?」
「そうだ」
「なんて事…」
体育教師の田津那先生が口を開き、校長が応え、若い女教師の真壁先生が嘆いた。
職員室内は火葬場のように静かで、テレビから流れる音が良く聞こえた。
恐らく、これを観ている全ての日本人は、これが本当の事だと理解していないのではないだろうか?
まず誰よりも私自身が、信じられなかった。
何故、あの計画が、あれは、あれは、殆ど夢物語にも近いモノだとばかり…。
遂に。
兄は。
今や日本、いや世界が騒然としているのだろう。
テレビ画面の中で国会議事堂が、反逆者の手によって占拠されていた。
なんて事だ。
なんて事をしてしまっているのだ、兄は。
気持ち悪かった。
吐きそうだった。
それと同時に安堵してしまっていた。
自分が、あの場に居ない事に、安堵してしまっていた。
井上くんの笑顔がよぎる。
そんな自分の薄情さが途轍もなく気持ち悪かった。
いや、実際はそうで無いのかも知れなかったが、とにかく今の私にはその感情を処理しきれず、気持ち悪いとしか認識できないでいるのだった。
そうだ、私はすっかり忘れていたのだ。
井上くんの居る、ぬるま湯のような日々に浸かって、父を亡くした悼みを。
兄は、片時も忘れた事が無いというのだろうか。
兄は、兄は。
兄の中の憎悪が煮詰まり、今まさに夢物語を実現せんと日本という国を飲み込んでゆく。
それを画面越しに観ている私は、罪悪感に飲み込まれていた。
目眩がする。
他の職員の机にすがりつきながら足下にうずくまり、声無き慟哭の叫びを上げる。
あの兄を差し置き、幸せなぞ感じていた私をどうか赦して欲しい。
私はもう、疲れていたのだ。
憎む事にも、哀しむ事にも、母の世話にも。
人並みの幸せを掴んでみたかったのだ。特別な事なんて何もない、些細な変化しかない毎日を送ってみたかったのだ。
愛しい人を愛したかったのだ。
どうかもう、私達を解放してくれ。
やがて全てが終わり、新しい王が誕生した───。